「…モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。『どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。』彼女たちは答えた。『ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。』父は娘たちに言った。『その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。』モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。『私は外国にいる寄留者だ』と言ったからである。それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」
出エジプト記2章15−25節
井戸、面白いことに聖書には様々な場面で井戸が登場します。イスラエルの父祖アブラハムの妻サラのいじめから逃げたエジプト人奴隷ハガルはここで受肉前のイエス様と出会い、イサクのお嫁さんは、これまた井戸で遣いは発見した。イサクも、様々な妨害があっても、神様がいつも生活の糧に必要な井戸を見つけさせてくださった。当時の井戸というのは神様と出会う場所の象徴だったのかもしれませんね。ただ、私たちはなにかものを得るために神様を求めるのではない、神様が与えてくださる恵みに生きるのです。神様はあなたが来るのを待っている、霊的な井戸で。あなたは今日この井戸に行き、渇くことのない泉・水をいただき、生かされ、歩もう。
さて、↑はかつてアブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの息子、ヨセフがエジプトに奴隷として売られるも、神様に導かれ、奴隷から、囚人から救い出され、総理大臣となり、世界的飢饉から彼は守り、彼をエジプトに討った兄弟たちと和解し、エジプトに呼び寄せ増え広がった。しかしその事を知らない王朝が現れた時代、エジプトの王ファラオ・ラムセスの治世。40歳になったモーセはイスラエル人が虐げられているのを見て我慢できなく、そのエジプト人を殺め、それを見つかって恐れ、逃げ出した、そこから↑が始まります。
モーセはファラオから逃げ、ミデヤンの地の井戸に座っていましたが、神様が導かれた先には必ず備えがある。ミデヤンというのはまあ、イスラエルの親戚のような部族なのですが。ただ、モーセ自身王宮で育ち、赤ちゃんの頃は母のもとで育ち、エジプトで生きていた、なんだかんだで誰かがそばにいた。
しかし、今は一人。異国の地、何があるかわからない。ファラオが嗅ぎつけてせまってくるかもしれないのに、井戸に座っている場合じゃないでしょう。普通に考えれば。しかし、私たちはどうしようもならなくなった時に慌てふためきますが、神様の助けが遅れることはない。神様はいつでもその御手を伸ばされている。守られている。私たちが自分のタイミング、時間に神様にあわさせようとするのではなく、私達こそ神様の時間にあわせ、神様のなさることを待つ。祈り、信じ、今できることを落ち着いてする事が大事なのではないでしょうか。
↑をよく見直すと、モーセは「ミデヤンの地に住み」とある。彼は、神様が事をなされるのを待っていたのです。実際にエジプトからでていくのはまだ40年先。しかしこの中で神様は養い、訓練してくださっていた。やがて出エジプトする時に民を導くための荒野で生きる手段、神様に信頼する事を学ばさせていただいていたのです。
そしてついに、ここでモーセのお嫁さんとなる女性、チッポラと出会います。モーセはエジプト人がミデヤンの女性たちの羊を襲っているところを助けたことで。偶然?違う、彼は落ち着いて生活をし、すべきことをしていた。神様に信頼し、いつか来る時を待っていた。そしてこのチッポラが出エジプトをし、荒野の旅の中で助けとなります。
チッポラの父レウエルは喜んだ。モーセは見ず知らずの男。しかし、彼のうちに働く神様の栄光を見たのか、喜んで受け入れ、チッポラを与え、ゲルショムという男の子が生まれた。モーセは、神様の備えてくださった家、霊的な井戸、ここに住み着いたのです。ただ、お嫁さんをもらった、子供が生まれた、そういうレベルの話ではない。
普通に見れば、王宮から都落ちしたようなモーセですから、生活のレベルも下がる。普段したことのないような羊飼いの世話など、大変な仕事もあった。なんでこんな事を自分がしなければならないんだ?とはしかし思わなかった。彼は、「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかった」のです。
神様が、導き、与えてくださり、今ここにいる。彼はゲルショムが生まれる際に「私は外国にいる寄留者だ」と告白していますが、それはただエジプトから逃げてきた外国人で機竜しているに過ぎない、という意味ではないのです。罪の儚さから出て、神様のみもとに寄留させていただいている。だからこの神様に信頼し、今何があるかわからなくても、この神様という井戸に身を寄せ生きていたのです。その中で多くの王宮では得られない訓練が神様からも与えられたでしょう。
↑の最後でイスラエルの叫び、苦しみを聴いていた、とありますが、これは大きい。今神様を信じて何になる、何も事が進まないじゃないか、別な方向に行くべきか?と迷う時があるかもしれない。しかし神様は何もしていないわけではない、あなたの苦しみ、叫びを聞いておられ、たとえ労役の中に苦しもうとも、今不遇と感じるような中にあろうとも、神様がその労役や不遇を遥かに超えた恵みを与えてくださる。
イエス様はある時、サマリヤという街を通られた。そこで井戸の傍らに座り、一人の女性を待っていた。彼女には5人の夫があったほどに傷つき疲れていた。彼女に渇くことのない泉の話をすると、彼女の本質、祝福とは物的な考えから脱却させたかった。神様がいつも養い、導いてくださる。その事を彼女は知って生きる希望を見出し、福音を伝え、街は変えられていった。
私はこれを読んでいる皆さんが今どのような状況にあるかはわからない。しかし、私たちは落ちつていて、神様に委ね生きよう。神様は罪に、闇に支配された私たちを救い出すため、御子イエス様に身代わりに罪を支払わせるため十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人を神様の家族として迎え入れてくださるのです。この復活のイエス様があなたと共に住まわれ、渇くことのない水によって日々養われる。あなたの不遇と思う人生はイエス様によって変えられる。
イエス様の命がけの愛によって変えられたこの命、どうして不遇と言えるだろう。祝福は物ではない、と何度も申し上げている通り、どんな状況にあっても神様があなたとともにおられるのだから、イエス様のみ傍に横たえ、今できることをさせていただこう。落ち着いて。恐れることはない。神様はある日だけではなく、いつもあなたに心を留めておられる。都落ちだ、不運だ、などと考えず、神様のみ心がなり、喜びが溢れることを切に祈り、歩もうではありませんか。
