ー一体どうすればいいのよー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに『なぜ自分の仲間を打つのか』と言った。するとその男は、『だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか』と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。」

出エジプト記2章11−15節

 

ここ1週間以上、某国による紛争によって混乱をきたしている。私の周りでも、一体どうしたら良いんだろうね、という言葉が聞かれるようになった。本当にそうだ。一体どうすれば良いんだ、でも逆に一体自分たちに何ができるのか?言うは易し行うは難し。本当にそれを思わされます。が、私たちは一つ大事なことを忘れている。神様に祈ること。信じること。祈って何になる?ではなく、今も同じ神様が生きておられ働かれているということを忘れてはいけない。どんな時にあっても祈ろう。

 

さて、↑はかつてアブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの息子、ヨセフがエジプトに奴隷として売られるも、神様に導かれ、奴隷から、囚人から救い出され、総理大臣となり、世界的飢饉から彼は守り、彼をエジプトに討った兄弟たちと和解し、エジプトに呼び寄せ増え広がった。しかしその事を知らない王朝が現れた時代、エジプトの王ファラオ・ラムセスの治世。↑でモーセは40歳になりました。

 

モーセは乳母、正確には本当の母親ですが、育てる間の養育費をなんと王の娘からいただき育て、エジプトの王宮にて育てられました。ただ、この40年は決して無駄ではなく、英才教育を受けながら、これから出エジプトを果たし、民を導くために必要な訓練期間だったのではないか、と思う。

 

神様の時間を私たちの時間に当てはめ「させ」てはいけない。ときに苦しく長く感じることがあるかもしれない。しかし、神様の1日はこの世の千日に勝る。神様、いつまでですか?と感じる日があるかもしれない。しかし、神様は私達の一日に、この世の千日にまさる恵みを注がれている。計画は、その御目は注がれている。なぜこんなに事が進まないんだ?と思う日、神様を思い出そう。祈ろう。神様の御心がなることを。自分の手で事を進めるのは簡単かもしれない、しかし、神様の私達の思いを遥かに超えたご計画がなることを切に祈ろう。人の目ではなく、神様の目で。

 

話は↑に進み、モーセはこのときのことを「こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た」と記しています。40歳。彼は同胞のところにでていったわけです。そして、普段当たり前のように行われていた行為が、彼の目には「苦役」に見えたのです。感じたのです。自分は王宮育ちで、彼らとは住む世界が違うんだ、とは決して考えなかった。どうせ奴隷だろう?とも思わなかった。

 

新約聖書で今見ているヘブル人への手紙ではこのようにあります。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」と。彼は英才教育は受けても、エジプトの考え方、文化に決して染まることなく、罪の楽しみよりも、神様の楽しみ、神様が祝福される民に生きる事を切に願っていたのです。ただ彼は奴隷たちの視察に行ったのではない、神様がどうしてこれほどまでに苦しんでいるイスラエルの民をそれでも強め、また増やしたのか、王が恐れるほどに恵まれているのか、それは民の行動からは見えなくとも、神様が彼らのうちに働かれているその様子に目を留めれば見えてくるのではないでしょうか。

 

先程、神様の目で、と書きましたが、私たちは神様の目など持っていません。が、私たちはかみ様がどのようなことをされているのか、それを中止する、傾聴する、従う、これが非常に大事なのではないでしょうか。人の目では、一体どうしたら良いと言うんだ、と思えるようなことはたくさんある。屈服するほうがある意味では楽なこともあるのかもしれない。かし、そこにはいのち・希望はない。しかし、モーセをほんとうの意味で養っていた、守り導いていたのは神様。希望を与えてくださるのは神様です。私達はこの神様という希望から目を背けてはいけない。私達が一体どうすればいいのか、ではなく、神様が何かを成してくださるのだから。

 

話は↑に戻し、そのときモーセの同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見ます。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠すのでした。立派な殺人です。はい。同胞を助けたい気持ちはわかる。彼のこの行為が正しかったのかどうかは正直な話、分かりません。ただ、自分の仲間が困っているのに、見過ごすのもまた問題。じゃあどうしたら良いのか?自分にできることはなにもない、と嘆くのではない、神様に祈ることはできます。

 

祈りは希望的観測ではなく、イエス様の12弟子の一人ヨハネが書き残した手紙に「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」とあるとおりです。モーセはこの時、祈る姿は見えません。せめて祈っていればまた話は別な方向に行ったのかもしれませんが、しかし、神様はすべてのことを働かせて益としてくださる。結果、荒野に旅立つときのための準備期間がここから40年また続いていくのだから。残念ながらこの時の様子を見ていたイスラエルの民は、喧嘩の仲裁に入ろうとしたモーセを拒み、彼らの出エジプトはまた先延ばしになっていくのですが。

 

すべて神様の御手のうちにあった、そう信じたい。私たちにはわからない。しかし、神様は私たちを愛してくださっている。彼らの引き伸ばされたこの40年神様は見捨てておらず、彼らの叫び声も聞かれていた。神様は、神様は何をしているんだ、と私たちが思っているときでもその御手を伸ばされている。パロの手から逃れ、ミデヤンの地の井戸に彼は座った。この先にはまた驚く展開があるのですが神様は底にも備えを置いてくださっている。私たちが神様という井戸に来るのを、命の水を求めに来るのを待っておられる。イエス様が打ちひしがれたサマリヤの女性を待っておられたように。

 

神様は私たちを神様の恵み、家族の中に招くため、御子イエス様を遣わされた。そして私たちが神様のもとに帰れるよう、モーセの罪、私たちの罪の代価を精算すべく、十字架でそれを支払われ、死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、死んで終わりではなく、裏切った弟子たちを復活のイエス様が待っていたように、あなたを井戸の前で待っている。あなたがこの世に振り回されるのではなく、イエス様の渇くことのない井戸の水で新しくされ、強められ、イエス様と歩めるように。

 

人の目には苦役に見える状況も、神様は恵みへと変えてくださる。私たちはこのイエス様に立ち返り、この世の視点で物事を縛り付けるのではなく、神様の御心を成してください、と祈り続けようではありませんか。祈りは決して無駄ではない。この確信の下、井戸で待たれるイエス様に全ての重荷を降ろし、委ね、イエス様の導かれるいのちの道を歩ませていただこう。