ー忘れてはいけないことー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。『見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。』そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。」

出エジプト記1章1−12節

 

私は忘れない事と忘れやすいことが結構分かれています。数字に関わることは忘れない、思い出は忘れない、でも意外なことは忘れてしまう。暗記も苦手。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、私たちは大事なことを忘れてはいけない。それは神様。神様はどんな時も共におられる。神様が私たちが知らない、気づかない、偶然でかだつけているだけであなたのことを忘れておらず、働かれている。だから、どんな時も神様を求めよう。神様は応えてくださる。

 

さて、昨年はイスラエル王国の歴史を見たあとしばらく預言書や文学書を分かち合ってきたので、ここからしばらくまた歴史書簡に戻りたいと思います。イスラエル王国誕生まではいくつかの書簡を挟むので、その間にブレイクを入れるかもしれませんが。しばらく出エジプト記、イスラエル民族がエジプトに住み着いてから数百年が経ったところから脱出〜旅の途中まで見ていきたいと思います。

 

かつてアブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの息子、ヨセフがエジプトに奴隷として売られるも、神様に導かれ、奴隷から、囚人から救い出され、総理大臣となり、世界的飢饉から彼は守り、彼をエジプトに討った兄弟たちと若いし、エジプトに呼び寄せた、そこまでが創世記。この時、イスラエル民族は70人でした。

 

そこから360年くらい経った頃の話。この頃にはだいぶ民族の数も増え、だいたい横浜市の人口と同じくらいにまで増え広がっていたそうです(出エジプトの際の人数では)創世記から申命記まで、このイスラエルをエジプトから救い出すリーダーとして神様が選んだモーセがこの書簡を聖霊様に導かれ書いているのですが、彼は自分がリーダーとして選ばれるところから、また出生から書き始めたわけではなかった。これは私の自伝なんだ、と自慢を残すために残したわけではない。彼は、神様がいかに私達を愛され、働かれているのか、そこを中心に残していった。それが↑の始まり。

 

神様の歴史はある時から切り取られるものではなく、永遠の昔から続いている。天地創造のはるか昔、時間という概念さえないときから。モーセは、イスラエルはこの時代↑にあるようにエジプトに虐げられ、奴隷として扱われます。明日の箇所はもっとひどい扱いを受けていくのですが、神様はピンチのときだけなにかしてくれる、より頼む、そういう方ではない、いやむしろ神様は昔も今も変わらず愛を注がれる方なのです。

 

最初にモーセは創世記の続き、わざわざ時間の経過があるにも関わらず、「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」と、移住してきた民たちを挙げています。

 

どうして?ある特定の民族、偉い人だけが神様の記録にのこるわけではない、神様はいつでもどこにあっても覚えておられる。私たちはなぜこんなことに、どうしてこんな事になっているんだ、と思いたくなることはたくさんある。今の時代特にそうでしょう。でも、神様は一人ひとりを覚えておられる。小さな民族から大きな民族に至るまで。死んだ後も彼らの子孫を覚えておられる。多産、たった12部族から横浜市並の人口にまで増え広がるなんて、しかも異国の地で。考えられない。

 

しかし、神様は「すこぶる強く、その地」を神様の恵みで満たしたい、御国を広げたい。ただ今起こっている領地略奪、とかではなく、神様の恵み、いのちに立ち返ることを切に願っておられるのです。そしてどんなときであっても私たちを強くしてくださる、だからこそ、私たちは、あの時は神様は助けてくださったのに今は…などと思ってはいけない。あのとき、いや生まれたときから愛し導かれ、養ってくださった神様に今こそ頼ろう、そういつも心に刻んでいたい、忘れないでいたいものです。あなたの神様はあなたを、あなたの使わされているところ、時に厳しい場所であろうとも神様の恵みで満たしたい、この思いを忘れてはいけない、祈り求めよう。

 

話を戻し、時代は寄せが総理大臣となり、エジプトや世界的飢饉から救い出したことを忘れた王朝が出現した。ラムセスの時代(ちなみにエジプトを脱出する時はラムセス2世の時代)のこと。彼らはとてつもなく虐げられていました。モーセはこのように記述しています。「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。『見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。』そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた」と。

 

王朝をとるような王・ファラオさえ、イスラエル人を恐れさせる。何というイスラエル、というよりもイスラエルの内に働かれた神様、神様を求めるもののうちに働かれる力はなんと偉大なことか。どんなに私たちを打ち負かそうとするものがあろうと、建てようとも、栄光をすり替えようとしても、神様を恐れないファラオに勝ち目はなかったのです。実際、彼はこのあと死にますし、息子もまた大変な苦しみを味わっていくこととなります。神様にさんざん悔い改めの機会を与えられていたにもかかわらず、すぐに神様から向きを変え続けたため。

 

苦しみが増し加わるなら、なお、私たちはますます祈ろう、神様への信頼を増し加えていただこう。神様のみ心、御力、ご支配が豊かにあなたに、あなたの遣わされているばしょにますます増し加わるように。神様は、苦しみを命へ、死から命へ、サタンの支配から開放し、聖霊様の宮と私達を帰るために御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせるほどに私たちを愛されたのだから。

 

この十字架に勝るものなし。イエス様の復活によって、全ては打砕かれ、このイエス様を救い主として受け入れるとき、あなたは新しくされる。ますます恵みが増し加えられていく。たとえ困難な時代、中にあろうとも神様はあなたを見捨てず話さない。命を賭けてまで愛された神様があなたと共におられることを忘れず、どんな時も、順境の日も逆境の日も、ただただ神様を恐れ、信頼し、委ね、歩もうではありませんか。自分の自伝、成功ではなく、神様の栄光が現されることを信じ期待して。神様が豊かに働かれる町を、蔵を建てあげていただこう。