「都上りの歌:主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。彼は主に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てました。『私は決して、わが家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。』今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした。さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。あなたのしもべダビデのために、あなたに油そそがれた者の顔を、うしろへ向けないでください。主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。『あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。』」
詩篇132篇1−12節
人は誰しも安らぎを求める。どこかにでかけて一時休む、誰かと一緒に過ごして心を安らごうとする、様々ですね。私達はどうも自分の方法、範囲内で安らぎを求めようとする、しかし本当の安らぎはどこにあるのか。消える事のない、永遠の。そんな物はあるか、と言われるかもしれませんが、それは保証する方がいるから成り立つのです。自分の範囲内では、いつかはそれは終わる。しかし、神様が保証される中にあっては私達は安らぎを与えられる、保証されるのです。私たちはこの神様に今日信頼し、歩もうではありませんか。
という事で、都上りの歌シリーズの第13弾の前半部。この詩篇全体はシオン、という場所が鍵となるのですが、実はここは昨日見たイサクが捧げられそうになった場所であり、ダビデが罪を犯して買った土地であり、そして十字架がたてられた場所なのです。イエス様の。
この背景には今言ったダビデの罪や、神殿建設などが含まれてくるのですが、しかしだから私達に関係がないわけではない。神様はいつでも私達を招かれる。この混沌とした時代にあっても、どこに安らぎを求めたらいいのか、さまよい歩く私達ですが、神様はどこか遠くでどんと座って構えているわけではなく、あなたの傍にいつもおられる。いつも私達のうちに住まわれようとあなたの応答を待っている事を忘れてはいけない。
↑の詩はダビデのために、と始まっていますが、ダビデが特別なのではない、あなたも神様にとっては特別な存在であり、神様の最高の作品なのです。パウロという一世紀に活動していた使徒が手紙にこのように残しています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」と。
あなたは神様にとっての最高傑作であり、このイエス様のいのちにあって買い戻され新しいいのちをまず、私達のために備えて下さった。ここに全てがあり、このイエス様があなたが正しい道を歩めるよう、その道に光をともし、導かれるのです。全てにおいて神様はあなたに、イエス様の命とともに備えてくださっているのです。
詩人は「主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください」と詩い始めます。まあ、ダビデのゆえに、とありますが、神様は私達の苦しみを思い出すまでもなく、覚えておられます。忘れる方ではない。むしろ私達のほうが忘れるくらい。どれだけ神様が私達を愛しているか、イエス様こそ道であるのに、自分の道のほうが正しいと、イエス様を横によけたり。
ダビデは多くの苦しみにあってきた、いのちを付け狙われる場面も数多くありました。しかしそれでも、彼は神様などに祈っても仕方ない、と別な諸外国にある偽神の像を作り拝むのではなく、唯一真の神様、全能者の神様に誓願を建てるのです。ちなみに、全能という言葉の元々の意味は、母の乳房、つまり私達が生きていく上で必要なすべてがそこにあるのです。そして神様の鼓動がまさに私達の耳に語られるのです。愛が、御言葉が、約束が。
人は諦めるのは簡単です。しかし、神様に信頼すること、それはある意味では難しいことなのかもしれませんが、神様はすべてを用意、備えてくださっているということを忘れてはいけません。ダビデは「私は決して、わが家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは」とその誓願を立てますが、別に寝ない、というわけではない、ただ本来彼が休める場所、横たわるべき場所は自分のこれだ、というものではなく、神様なのだ、神様こそ、私達の安らぐべき場所なんだ、と告白します。
残念ながらダビデは神殿を建てることは許されません。しかし、だからといってふてくされるのではなく、ソロモンが建てることになる、と神様に言われたとき、彼はソロモンのために必要なすべてを備えた。重労働?違う。神様のために宮を建てたい、その一つの役割、それに喜びを見出した。それを神様は喜ばれたし、彼には彼への神様の恵みが豊かに注がれていたのです。
詩人は更に続けます。「今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした。さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も」と。場所については明日見えてくると思うのですが詩人はまさに、この神様のうちにこそすべてがある。養いが、平安が、安息が。神様の道から、虚しく帰ってくることのない約束、御言葉によって私たちは安らぐ、いのちで満たされるのです。
今の時代、本当に混沌としている、安らげる時、場所は一体どこにあるのか、と目に見える場所だけを見るのではなく、神様を見上げよう。神様はあなたのために立ち上がって、安息を与えてくださる。その御力を表してくださる。何を恐れる必要があるだろう。主の山には備えがある。あなたがこの都上りをする、求めるかどうかはあなた次第。
詩人は「あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。あなたのしもべダビデのために、あなたに油そそがれた者の顔を、うしろへ向けないでください。主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。『あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。』」と最後にまとめます。
神様は、私たちの罪人としての囚人服を脱がせ、義の衣、神様の子としての衣を着させてくださるため、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
神様は取り消されることのない約束を御子イエス様のいのちにあって成就された。私たちはこの恵みのうちに招かれているのです。神様はあなたが本当の意味で生きる事を望まれる。私たちはこの神様の内に進みゆかせていただこうではありませんか。神様は全てを、御子イエス様の救いと共に用意され、待っておられる。あなたをいのちの牧場、緑の憩いにふさせて下さる。喜び歌わせて下さる日へと一緒に導かれる。私たちはただ仕方ない、と不平不満をいうのではなく、神様の招かれる御住まいに安らがせていただき、また主と共に歩もうではありませんか。イエス様はあなたの苦しみを、いやあなた自身を忘れない。神様に憩いを、安息を求めよう。