「都上りの歌:『彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。』さあ、イスラエルは言え。『彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。』主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。たばねる者も、かかえはしない。通りがかりの人も、『主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します』とは言わない。」
詩篇129篇1−8節
人が苦手とするのは許すということ。たぶん、どこかでひっかかって、許したつもりでも心のどこかに残っている。私も、ある牧師さんの犯したあり得ない罪、それに被害にあった母のことを思うと、その方を許すまで4−5年はかかった。でもまだ引っかかっていた、しばらく。ここには書けないほどのことだった。しかし、その問題を引きずって先に進めない、神様の招く恵みのうちに進めないのはもったいない、とある時、その許せない気持ちを切った。その方はその方、その方と神様の間できっと取り扱われていくと信じ、私は私で神様との関係を求め、祈る決断をした。この人嫌いだから、とバッサリ切り捨てるのではなく、神様が取り扱われることを期待し前へと進もう。
という事で、都上りの歌シリーズの第10弾。これまた詩人の名前が書いていないので誰が歌ったのかは不明ですが、まあおよその見解としてはバビロン捕囚にあった誰かが解放されて後に残した詩。まあ、それはどうでもいいのですが、この詩人はなかなか厳しい詩を歌います。一番最後など、「通りがかりの人も、『主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します』とは言わない」などと歌うくらいですから。しかし、私たちはこの詩を見る上でとても大事な点に気付かされます。そのような通りがかりのもので、見捨て、神様の祝福を祈る、悔い改めを、神様に立ち返ることを祈り、また行動するものか、それとも、どうせこの人は自分を苦しめる人だから、という立ち位置にいるのか。これは大きな違いです。
というのも、神様の願いは、願わくばすべての人がイエス様の御名によってすくわれること、一人として滅びることなく永遠の命を持つことを何よりも願われている。歴史においても、神様は悔い改めの機会をいつも与えてくださっていた。アッシリヤの首都ニネベ、彼らはあまりの残虐性故に神様から裁きの宣告の預言を、預言者ヨナを通して伝えた、しかし神様は彼らが悔い改めると裁きの手を止め、100年、彼らはイスラエルへの攻撃をやめ神様の恵み、保護の中生かされた。監禁的なものではなく喜び、恵みの内を。
また、ソドムとゴモラの街を滅ぼすと決めた時、すぐその場で滅ぼすことはできても、あえて神様の御使い、受肉前のイエス様もいらっしゃったのですが、見て、悔い改めの機会を与えられた。しかし残念ながら彼らは悔い改めることなく滅びつくされたのですが。
詩人は苦しみの中、「『彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。』さあ、イスラエルは言え」と歌い始めます。苦しめ続けた、だから彼らを滅ぼしてください、と祈るのか?宣言するのか?それは私たちは何かを引きずり続けることになる、私たちはその鎖を断ち切って頂く必要がある。神様は苦しみの中に閉じ込めておくことはされない。
詩人はこの時何と言ったのか。「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った」と。たしかに自分は苦しめられた、だから神様、復讐してください、手を貸してください、とは言わなかった。むしろ神様が勝利を治めさせてくださった。強制労働のようなことを押し付けられたのでしょう、捕囚中。しかし神様はそれでも彼らを開放してくださったじゃないか、とこの詩を残すのです。更には「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた」と。
許す、ということは本当に苦しいことの一つかもしれない。しかし、神様は私達の思い煩い、とらえる鎖を断ち切ってくださる。イエス様は、12弟子の一人のペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と訪ねた時、こう答えられました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と。要するに無限に、ということです。
そもそも私達には人を裁く権利などない、同時に、私たちは神様に赦され、あいされ、その愛の加護の中にいるじゃないか、それなのに、許せない苦しい思い、先に進めないように捉える鎖にいつまでも捕らえられていてはいけないのです。
そうすると、詩人の「シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。たばねる者も、かかえはしない。通りがかりの人も、『主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します』とは言わない」という詩の部分に矛盾するではないか、と思うでしょう。
だからこそ、都上りなのです。私たちは神様の愛を知らなければ、受けなければ許すことなどできないでしょう、こころから。私も序論で書きましたが相当苦労しましたし、実は今日あることを祈っていたところ、都上りシリーズの続きの箇所で答えを頂いた。私たちにはどうしたらいいかわからない、だからこそ、私たちは神様に祈るのです。
「シオンを憎む者」というのはわかりやすく言うと、イスラエルを憎むもの、もっと広義に見るなら神様を信じる人、と言ったほうが良いでしょう。でも許すことを勧めるイエス様の前に許さない道を選ぶならそれは神様から離れていないだろうか。私たちはむしろそのような思いから退けられ、枯れる屋根の草のようになることがないよう、むしろ126篇でみた、別な都上りの詩の「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」者でありたい。
それでも、最後の「通りがかりの人も、『主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します』とは言わない」という部分に引っかかりますが、実はもともとの詩には、ここに早くされていない、「しかし私たちは主の名によってあなたがたを祝福する」と続くのです。他の人がどうなのか、ではない、むしろ私たちはそこに神様の恵みが、私たちにはできない大いなる御心がなされることを祈ろう。
イエス様はこうも仰られました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」と。難しい、それはわかっています。しかし、2人でも3人でもイエス様の御名によって集まるところに、イエス様もそこにいてくださる。イエス様の十字架の赦しが繋いでくださるのです。そこから捧げられたものは神様によって大いに祝福されるでしょう。
イエス様だって、何の罪もないのに十字架にかけられ死なれる、というありえない苦しみを受けられた。しかし私たちが、あなたが命を得るためならと惜しまれなかったのです。しかし、この和解を、愛を私達が受け入れるとき、私たちが神様のみ前に自身を献げる時、神様は喜びの束、涙を拭い去り喜び、大いなる恵みを抱えきれないほどに持たせてくださる。
私たちは↑にあるような通りがかりの人ではなく、神様のみ心が、祝福が溢れることを願おう。神様がこのイエス様のいのちにあって全てを新しくしてくださる。古い鎖を断ち切っていただき、神様の導かれる恵みのうちを歩ませていただこうではありませんか。神様の愛があなたの家を締め、またあなたの周りにまで溢れ流れることを祈りつつ。