本物の助けはどこにあるのか | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

人は目に見えないことに不安を覚え、自分でなんとか頑張ろうとする、ということを昨日の分かち合い(2つ↓)で見ましたが、

神様は目に見えないから自分で頑張るの?違う。神様は私達を助ける方です。

今、私はそういう意味で本当に試練を受けているかもしれない。それでも、神様の、私の想像もつかないみわざに信頼します。

 

チャールズ・ハッドン・スポルジョン氏は以下のように語る。

 

「しかし、神である主は、私を助ける。」 イザヤ書50章7節

 

これは、死に至るまで従順であったメシヤの預言の一節である。その時、メシヤは打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せられた。しかし彼は神の助けを確信し、主をひたすらに信頼されたのである。わがたましいよ。おまえの悲しみは主のそれに比べたら、はかりの上のごみにすぎない。おまえは、主なる神がおまえを助けられると信じることができないのか。おまえの主は、罪ある人たちの代表者 ーー 彼らの身代わりの犠牲 ーー となり、御父に見捨てられる必要があった。

 

ところが、おまえがそのようになる必要はない。あなたは「父よ。どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばなくてもよい。あなたの救い主はそのような場面になっても、なお神に拠りたのまれた。それなら、あなたが神に信頼できないという道理があるだろうか。彼はあなたのために死に、あなたがひとり取り残されるようなことはあり得ないこととされた。

 

だから心を強くしよう。この日の労働や試練にあたって、「神である主は、私を助ける」と言おう。大胆に前進しよう。あなたの顔を火打石のようにし、心を弱くしたり内気になったりするはずはないと自分に言い聞かせよう。神が助けてくださるなら、だれがそれを妨害できるだろうか。大能者の助けが確実にあるのなら、担うのに重すぎる荷があるだろうか。喜びをもってこの日を始めよう。疑いの一筋も、あなたと永遠の太陽の間に入らないように。