ー究極のパートナーー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「都上りの歌。ソロモンによる:主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

詩篇127篇1−5節

 

世の中には様々なパートナーがある。家族、兄弟、友人、仕事のコンビ等など。それはやはり人は一人で生きていくことはできないから。まあ昔、愛情なしに育てたらどうなるかという人体実験をした人がいて、全員死んだ、と(実は本当の目的は人は最初に聞いた言葉を話すようになるのではないか、という仮説を証明するためだった)。だから神様はアダムにエヴァを与えた。でもそれ以上に、完璧なパートナー関係は決して神様なしにはあり得ない。だからこそ私たちは神様に結びつき、建て上げられ、歩もうではありませんか。

 

という事で、都上りの歌シリーズの第8弾。この詩の詩人は表題の通りソロモン、古代イスラエル王国3代目の王ソロモンになります。この表題を見逃して詩だけを読むと本質を見逃しかねない。神様との関係がいかに大切なのか、ないがしろにすべきではないのかがよく見えてきます。

 

彼はある意味では兄弟の中では不遇。聖書の中には書いてありませんが、彼の母親は、2代目王ダビデの誘惑もあり、不倫、その上で何人かいる妻の中に迎え入れられた。すでに彼の前には兄たちがいましたし、そんな兄たちから見たら、黒歴史。また、その彼が王になることなどありえない、とダビデについていた将軍ヨアブも彼にだけはつかない、と命を捨てた。

 

しかし、よく生まれてくる子供に罪はない、と言いますが、神様はソロモンを決して見捨てなかった。イスラエルの国の暗黒の歴史として葬り去るのではなくソロモンを王として選ばれた。ダビデを通して。そして、神様はそれだけではなく、まだ若くどう国を治めたら良いのか、わからない。また偉大な父の姿も見ているから余計に劣等感があったかもしれない。しかし、神様は彼が王になる前に何でも望むものをいってみなさい、と言われ、彼は国を正しく治める知恵を求めた。その結果、ソロモンは彼の求めなかった富も名声もありとあらゆる物を受け、また、ダビデ故にソロモンに協力する国、者もいた。まさに彼は神様との関係にあって生かされていたのです。

 

この状況を踏まえた上で↑の詩を読み返すと全く見方が変わってくる。ただ、なにかの成功は神様による、とかそういう問題ではない、神様との関係の中にあって私たちは安息、良き実を結ばせていただけるのです。建てあげていただけるのです。

 

私たちは様々なところで生きている。状況、国、会社、家族、皆それぞれ違う。しかしその中にあって自分でなんとか頑張って頑張ってなんとかしようと建てあげようと疲れ、いつかそれは破綻してしまう。それは私のような中年、若造に言われなくとも皆さんおわかりでしょう。でも、見えないなにかに委ねる、その第一歩を踏み出すというのは本当に怖い、その気持ちはわかります。しかし、それでは不安や怖れ、労苦に本当に支配されてしまう。しかし、面白いことに他の訳では、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」とあります。

 

そう、神様は私達に安眠を与えてくださる。イエス様も「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と仰っていますねアーメンです。これは迫害の中にある人に向けて言われた言葉でもあるのですが、軛は一人で背負うものではなく、2人で背負う。弱いものと強いものを組ませて。イエス様が背負ってくださる、そして休ませてくださり、安らぎを与えてくださる、と言うのです。

 

私たちは確かに自分でなんとかしようとする。しかし、わたしたちにとってのベストを、私たちは見えないからと不安になってなんとか頑張って作り上げようとしますが、そうではない、神様がソロモンが王になる前に全て備えてくださったように、彼自身「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と歌うように、神様が私達の見えない中で備えていてくださっているのです。「建てること」「守ること」「食べること」いわば生存、防衛、働きですね。神様の御手の届かないところはないのです。

 

私たちはまず神様に委ねることを忘れてはいけない。神様を第一とする、神様に委ねる。神様が最善へと導いてくださる、衣食住すべてをあなたに備えてくださる、だから私たちは委ねていいのです。不安、わかります、でも自分で頑張って頑張って疲れるよりは、まどろむことなく働かれる神様の御手にゆだねてみませんか?立てあげてくださる、虚しいものにされないのは神様なのですから。あなたの周りの人でもない、神様が整え、備え、またおさめ、力づけ、安らぎを与えてくださるのだから。

 

こうなってくるとソロモンの生涯と重ねると分かりやすい。彼が神様に頼っているうちは本当に国は繁栄し、諸外国からも彼の知恵を、また建てられた神殿を見に来るほどだったし、彼に答えられないことはなかった、という。しかし、一方で、神様に頼らず、ここまで自分はなったんだから大丈夫、と神様から離れ、外交に手を伸ばし、奥さんと妾さん合わせて1000人の女性に囲まれ、また重税を課して絢爛豪華な自分の宮殿まで建て、奥さんたちの顔色をうかがった結果、この世代で王国は分裂、どんどん彼の影響を受け、離れていき、最後は南北共に捕囚されていってしまう。なんとむなしいことだろう。そこには安眠も何もあったものではない。彼らのご機嫌取りにどれだけすべきことを逃し、労力を割いたことか。

 

同じ労力を割くなら、私たちは祈ろう。神様に御心を求め、従おう。目に見えなくとも、すべてを守り備えるのは「その愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」神様なのだから。神様に心から捧げるものにあって無駄なことは一つもない。すべてを益としてくださる。

 

ソロモンは続けます。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」と。矢筒とその矢の例えから、息子(矢)は父(矢筒)の誉れであると語られています。しかもそれは賜物であり、報酬であることが語られています。ちなみにここで不妊の女性を否定する箇所ではないことは前半から明らかです。

 

その父は神様です。そう、神様との関係、パートナーシップにあって、神様はいつでもあなたに最善の賜物、報酬を備えてくださる。あなたという矢に。神様は、罪人である私達を最高のパートナー、罪人ではなく子として迎えるため、御子イエス様にわたしたちの罪、重荷を背負わせ十字架で身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによってこのイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

このイエス様の命に合ってたてあげられる新しい命、満たされるや、賜物、報酬はいかばかりか。どんなに一般的に端を見る場面であろうとも神様がわたしたちに端を見させることはない。だからこそ、私たちはこのイエス様の愛を、宗教だの何だのと思わず、誇りとし、信頼し、歩もうではありませんか。神様が矢筒から放たれる矢、大いなる御業に信頼し。神様はあなたにすべてを備えてくださる。あなたはこれを信頼しますか?