「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」
ヘブル人への手紙11章11-12節
奇跡的、と思えることは人生でどれくらいあるだろう。起こるだろう。自分で起こす、たまたま起こす、まあ自分で起こしたものを奇跡的、と言えるかどうかは別として、数えるほどでしょう。しかし私達が知らないだけで、あなたの内に神様は数え切れないほどの軌跡を、御恵を注がれている。それを奇跡、神様の愛だと思っていないだけで。私たちはもっと神様に期待しよう。神様がなされることに信頼し、喜び、歩もうではありませんか。
さて、信仰者シリーズ、今日はサラという人の話。彼女はアブラハムというイスラエル民族の父祖に当たる人の妻。アブラハムはこれまで見てきたように75歳の時、65歳のサラと一緒に神様の示す地へと出発しました。神様が約束された、恵みを信じて。
ところが、いつまで経っても彼女に子供は与えられませんでした。出発前も。出発しても何度も神様から約束されていた。例えばアブラハムが不安になり、神様に「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げると、神様のことばが彼に臨み、こう仰せられたのでした。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と。そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と約束されるのです。
しかしそれでも与えられることはなかった。そこでサラ神様を信頼せず、は自分の奴隷に子を産ませるも、自分の企てたことなのに、子を持ち高慢になった奴隷ハガルに嫉妬し、いじめ、追い出した。しかし、神様に優しく語られたハガルはアブラハムのもとに戻り、仕えます。
しかし、このときの行動に対して、神様はなら、と13年もの間、沈黙をされるのです。その間どれだけ辛かったことでしょう。神様が連れ出された、その神様が沈黙される。これほど辛いことはなかったでしょう。
13年経ったその時、神様はアブラハムにこのように仰られました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう」と。どれだけアブラハムは嬉しかったことでしょう。アブラムは喜び、ひれ伏したのでした。そんな彼に神様は告げて仰せられるのです。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。…」と。
そして99歳のときに神様は翌年にサラに子供が与えられると約束されますが、サラはその話を聞いて89歳の彼女がどうして身籠れるだろう、と笑いました。しかし彼女はやがて子供を約束通り授かり、本当の笑顔、笑いを得ました。
私の知り合いの方で50代でリアルに出産された方がいますが、女性の体のシステムを考える上では普通に考えてあり得ない。しかし、神様に不可能はないのです。事実、イエス様が聖霊様によって宿れられる器となったマリヤは処女であるにもかかわらず、宿し、出産した。神様に不可能なことはないのです。
↑の筆者パウロは、サラは「すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました」と書いていますが、そうなんです、それは人としてはありえない話ながら、神様が与えるその力故に、ありえないことが起こる。私達が奇跡を起こす、不可能なことを可能にするのではない、神様が私達の常識ではありえないことを成し遂げてくださるのです。信仰がすごいからすごいことを「自分で」起こせるのではない、神様が成してくださる、それを信じること、それがだいじなのです。「信じ」「仰ぐ」。私たちは自分がなんとかできるように助けてください、と求めるけどそうじゃない、神様のみ心がなりますように、と祈り求める、上を見上げたいものです。
アブラハムとサラの間に生まれた子から多くの子孫があたえられていきました。多くの迫害があろうとも。でも、子孫の数の問題ではなく、神様の御業は、御力は、数え切れないその子孫たちにもまた、注がれていった。数の問題ではない、1つ1つの中にあって神様は最高のご計画を、御心を現される。それはあなたにもです。マリヤでさえものすごいことがあったように。彼女がすごいからその恵みに預かったのではない、彼女がそれを受け入れた、だからこそ、彼女は救い主イエス様の御側で生きるという素晴らしい特権に与ることができたのです。
あなたは神様から注がれる力を、御心を、御恵を、信じ受け取るだろうか。昨日の話ではありませんが、信じて受け取りに行って初めてそこから始まる。アブラハムとサラは最初それに失敗した、でも神様はそれでも彼らを見捨てることはなかった。
神様は御子イエス様の十字架を通して、私達の罪を赦したい、とイエス様の命を賭けてまであなたを愛する決断をされた。死んで終わりではない、私たちがこのイエス様を救い主として受け入れるとき、あなたもまたこの復活の恵みに預かり、新しくされる、本来神様があなたに注ぎたいと思われている最高のご計画を受ける。復活のイエス様があなたの生涯をともに導かれる。
あなたの力で頑張るのではない、イエス様が導かれる、順境の日も逆境の日も。これほどまでに愛されるイエス様の恵みに私達は感謝し、信頼し、イエス様のくださるいのちの道を歩ませていただこうではありませんか。