ー一寸先は闇…なのか?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

ヘブル人への手紙11章8節

 

ここ数年、何がどうなっているのか、と先行き不透明な感が否めず、人は疲れている。それは先行きを保証する存在がわからないから。しかし、明日を、明後日を、これからも導こうとあなたを待っている神様がいる、これを忘れてはいけない。神様は、私たちの足元を照らす光、道です。私たちはこの神様から離れず、疑わず歩みたいものです。

 

さて、新約聖書は信仰ってなんだ?ということでこのヘブル書に登場する人物1人1人にフォーカスを当てて見ていますが、今日見るのは信仰の父祖いうか、イスラエルの父祖というかアブラハムという人に焦点を当てたいと思います。

 

彼は、もともと偶像の作られていた、と言うよりも月の神?そういうのを作っている名家出身だった。ある意味キリスト教と真逆の位置にいたようにも見えるのですが、彼はノアの子孫ということもあり、どこかで神様の存在を信じていた。何も答えない、導かない、息もない造り物の偽神ではない、本物の神様を。

 

↑だけでは様子がつかめないと思うので、ざっと彼の流れを見ると、彼の父テラが、息子アブラハムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサラを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけたのですが。しかし、父テラはハランまで来て、そこに住みつき、そこで死んだ。

 

その時に、神様はこのように突然アブラハムに語りかけるのでした。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と。そしてアブラハムは神様がお告げになったとおりに出かけるのでした。これが↑の話になります。サラについてやこの先についてもまだ続くのでお楽しみに。

 

ちなみにこの時アブラハムは75歳、妻サラは65歳でした(ちなみにアブラハムの妹)。そういう文化だったというのも神様からある意味かけ離れたところに彼らは生きていた。でも神様は彼の心の叫びを知っていた。だから神様は彼に語りかけたのでしょう。こんな高齢で何ができる、と思うところでしょう。今の時代なら出産など考えられない時代。それに、父がなくなってこれからどうなるかわからない、しかし彼は何一つ文句を言わず応答するのでした。

 

ちなみに実際に彼に子どもが与えられたのは100歳の時です。サラは90歳。そしてアブラハムはなんと175まで生きます。そして、孫を見ている姿は聖書に描写されていませんが、実際に孫が生まれた年数を考えると、実は彼は孫の顔も見れているのですが。

 

サラは不妊の女性でした。それなのに、彼を通して大いなる国民とする、と。どうして信じることができますか?そんなありえない話を持ちかけた神様をどうして信用できますか。これまで子どもを与えてくださらなかったのに、と普通なら思いたくなりますよ。しかし、アブラハム自身これから先何が起こるかなど知らない。と同時に神様はこれまでも導いてきてくださった。ある一点だけ納得行かないから信じない、ではなく、彼は神様のご計画にその身を委ねたのです。

 

覚えているでしょうか。伝道者の諸10章でみた「愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない」という言葉。人はあり得ない、とか言い訳を付けたり、自分が逃れる道を探す。逃げ出す道を。しかし、たとえ何かの問題から逃げようとも、これから起こることはわからないのです。あれこれいっても、それを誰が保証しますか。疲れるだけです。これから先行くところなどわからない。

 

しかしアブラハムはそれでも神様についていくことを決断した。それが彼の信仰(実態)だったのです。神様こそ道であり、その道を照らす光となってくださる、と。ある時だけじゃなく、この先も神様が導いてくださると信じた。彼はある意味では裕福な家庭ですから、わざわざ知らない土地に行って相続財産を探す、という必要はなかった。しかし、この世の全てに勝る神様の恵みに信頼したのです。そうして彼を通して生まれてくる子どもたち、その子どもたちを通して神様はイスラエルの地を与えてくださったのでした。

 

この先に何かがある、良いことがあるから行くのではなく、悪いことがあるかもしれないと不安になるから行かない、のでもなく、彼を保証する、彼を祝福すると約束された神様に信頼したのです。金銀財宝、相続財産そのものではない、彼が行くところどこでも神様も共に進まれ、導かれる。彼はこの先、苦労が山程あります。が、それでも神様はその道を照らされたのです、導かれた、見捨てることは決してなかったのです。

 

彼が離れるべきはそのような古い自分から離れ、神様についていくこと、彼はそれを選んだ。何があるかわからない。何があるから行くのではなく、彼は神様が一緒だから決断したのです。ちなみにおいのロトや召使い(後に大変アブラハムを助けることになる人たち)も一緒に進み行きます。一緒に神様の恵みのうちを歩もう、と。

 

今の時代、正直先行きが不透明、一寸先は闇に見えるかもしれない。しかし、神様は私達を見捨てることはない。神様は、この暗闇にいる、どこに命があるのか、さまよう私達を探しに、御子イエス様を同じ人として生まれさせてくださった。罪を犯さない点を除いて全く同じに。同じ重荷を背負い、同じ苦難の時代の中を共に歩まれ、愛を現された。それだけではない、私達をこの暗闇から引き出すため、私たちのまとわりつく暗闇、思い煩い、何より罪を打ち砕くため、私たちの身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私達を墓から、死から、引き出し、神様の家族・子として迎え入れてくださったのです。

 

この命がけの愛を実行される神様があなたを保証されている。導かれる。御子イエスの命をおしまないほどにあなたを愛された神様が。この時代、この先何があるかわからない。しかし、その中にあってみてを伸ばし、あなたを連れ出し導かれる復活のイエス様に、私たちはついていこう。この方があなたを導かれ、道を照らし、世の終わりまで共に歩んでくださるから。神様は御子イエス様の命とともに相続財産、恵みを注がれる。物を超えたすべてがここにあるから。