「愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの首長たちが、酔うためではなく、力をつけるために、定まった時に、食事をする国は。なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」
伝道者の書10章15−20節
なにか起こってから手を打ち始める人か、その前に備えるか。雨が降る前に畑を備えるか、雨が降ってから畑を備えるか。さて、あなたはどっちがたでしょう。私たちは先のことがわからないから、いつ備えていいかわからない。これは多分日本でここ数年多く見てきたことでしょう。しかし神様はすべてをいつも備えてくださっている。私たちは何もかも悟ったかのように諦めるのではなく、神様を求め続けよう。神様に信頼しよう。神様はすべてを用意し、あなたを待っておられるから。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの書き残した伝道者の書10章最後の部分になります。そもそも、この10章は愚かな権力者、そしてそれがやがて必ず打倒され、逆転する日が来るということを昨日一昨日と見てきました。
ソロモンはある意味では王ですから権力者です。しかも遠い諸国に至るまで(エチオピアなど)彼の名声、知恵の深さは届き、尋ねてくるほどでしたから。でもそれは神様が祝福されるゆえ、神様が備えてくださっているゆえです。エルサレム神殿は、彼の父が神様の祝福の元集められたものをもって建てられました。協力者もです。神様は、ない、と思う中に必ずご自身の御座を、私達がお迎えする中においてくださり、住まい、治めてくださる。
しかし、人間は完璧ではありませんし、いつも知恵を求め、神様を求め続ける、なんて人は聖書の中にも一握りかもしれません。先代の王ダビデも、一見成功者に見えて、実は不倫、隠蔽殺人までお越しているくらいですし。誰しもが完璧ではない、しかし神様にあって私たちは形作られていく。その神様の御業を喜ぶか、それとも満足せず、別な何かを求めるか。ソロモンにしてもダビデ(彼も実は複数奥さんがいた)にしても苦悩する。葛藤する。
しかし大事なのは、愚かであっても、神様を求め続けること、それこそ大事なのです。実は↑の「愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない」という部分は正確に訳すと、「愚か者は目標に到達する方法を知らない」という意味になるそうです。目標に達する、その目標はなんですか?だれも不幸を望みません。しかし、↑に「わざわいなことよ」と「幸いなことよ」と比較しながらソロモンは述べていますが、私たちはどっちが災いで、どっちが幸いなのか、歩む中でわからない。だからこそ本当に大事な、キリスの似姿に作り変えられていくことを願い、いつも、イエス様を求めていく、この世の権力者、あなたの周りの問題や、立ちはだかるもの、これら全てに対して恐れおののいてはいけない。勝利の日がかならず来るから。
話を↑に進めて、まずソロモンは「わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの首長たちが、酔うためではなく、力をつけるために、定まった時に、食事をする国は」と語ります。
まあ、先の時代の話、王国が分裂した後の話になりますが7歳で王になった人はいます。が、彼のメンターが召された後は神様から離れていった、という経緯もあったりします。そういう意味でも、まず大事なことは、王は誰なのか、ということです。この国には確かに「王」という立場の人はいません。皇族?総理大臣?あなたは誰をそれに近しい人を挙げますか?彼らは決して王ではありません。王政を取っていようとも。本当の王の王は神様ただお一人です。7歳で王になった人は、メンターが生きているうちは神様に従ったけど、それはある意味では形だけだったのかもしれない。神様を真に求める、なぜなら神様が王を置かれるから。神様が任されるから。
これを忘れると、大変なことになります。先にも申し上げましたとおり、完璧な王、あなたの遣わされているところのリーダーでもいいでしょう、上司でもいいでしょう、彼らにももちろん良いところはあるでしょうが、完璧たり得ません。どこかで失敗もあれば人を傷つけることもあるでしょう。それは人の視点で見て変わってくるかもしれませんが、人間だから失敗するのです。間違えることもあるのです。人は極論完璧ではないから、↑にあるように子供、といってもいいのかもしれません。いや、私たちは神様の作品ですから、神様から見たら子供。でも失敗はある。
だから、聖書では「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい」とあります。パウロという伝道者が紀元1世紀に書き残した手紙の中の一つですが。それは↑の最後でも、「王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ」と語られているとおりです。
何でもかんでも従うイエスマンになれ、ということではありません。完璧ではないからこそ、↑にみるわざわいなことよ、とならないために、私たちは祈るのです。そして、間違っている、神様の価値観から全く別だ、と思うときには時には忠告することも必要です。先程申し上げましたダビデの失敗、王に対して、祭司ナタンは恐れることなく忠告し、悔い改めに導いた。
↑の食事の風景は、国の中が好き放題な状態になっているのがわかりますよね。しかし、真の王、神様が治める中には、信頼し委ねる、王座を設ける時、私たちは幸いなものとなる。神様がいつもすべてを備えてくださるのです。私たちが子供のように、どうしたらいいのかわからず、手をこまねいている、さまよい歩く中で、神様が導いてくださるのです。力づけてくださるのです。神様は何もしないじゃないか、放ったらかしにされている、と私たちは子供のように考えますがそうではない、神様はあなたへの完全な愛を持って導こうとされる、備えてくださる。
時に厳しい言葉を、ダビデに忠告したナタンのように語られるときもあるかもしれない。しかし、神様は私達を、ナタンがダビデを神様のもとに立ち返るよう導いたように、いのちの内に導いてくださるのです。「なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる」とソロモンは言いますが、私たちは仕方ない、こんな状況だし、とか勝手に王はしているんだから、好きにすれば良い、と思うのではなく、やはり祈るべきではないだろうか。まことの王なる神様に。
神様は御子イエス様の命をあなたの罪の身代わりに惜しまず与えるため十字架にかけ、死なせるほどにあなたを心配される、愛されている。この神様がどうして黙って、あなたが崩れていくことを見ているだろうか。むしろ命をかけてあなたを救い出し、ご自身のうちに招かれたではありませんか。復活とともに、あなたを墓の中から、暗闇の中から引き出してくださるのです。
わざわいか、幸いか、神様はあなたを幸いの道に引き上げようと今日もあなたの応答を待っている。いつまでも子供のように駄々をこねるのではなく、諦めるのでもなく、神様がイエス様の命を持って新しく私達を生まれ変わらせてくださり、立てあげてくださる、力づけ、導いてくださる、この神様に信頼し歩もうではありませんか。
