ー大逆転の日ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからずにかみつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、みじめな狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」

伝道者の書10章5−15節

 

私が若い頃にアルバイトをしていた時、店長と売上について話をしていた時、面白いことを言っていた。それは、なにか悪いことをしている人は口数が多い、と。他にも、嘘を重ねていけばどんどん追い込まれる、これは誰でもわかることですが。本当に知恵ある人は、本当の知恵、神様を求め、神様のみ心を求める。そこにいのちがうまれる。喜びが生まれる。神様は私達にほんとうの意味で益をもたらしたいといつもあなたに語りかけている。自分をごまかしたり、諦めたりせず、聞き、へりくだろう。そこにある神様の御心に信頼し。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの書き残した伝道者の書10章の中盤になります。ここはとても分かりやすい例えが並んでいますね。多分、誰しもがそうだそうだ、と思うでしょう。でも、それが私達はなかなか出来ない、だから失敗する。

 

昨日の分かち合いで「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い」というソロモンの言葉を見ましたが、人があれこれ試行錯誤して調合して、なんとかうまくいくようにしても、本物の芳しい香油は神様あってこそ生まれる。当時の香油は瓶に入っていて、一度割ったらそれで終わり、という話をしましたが、私たちは神様の前に覚悟、信仰を持って、あなたの思い、あなた自身を差し出し、割ることができるだろうか。そのとき、神様はあなたに神様の命というものを配合し、喜びの、かぐわしい香りを放たせてくださる。そこから命が生まれるのです。

 

私たちは失敗や、問題に対抗しようと様々な本や何やらにヒントを求め、自分に還元しようとしますが、その本は、何かは、あなたのために書かれたものではない。だから100%あなたに当てはめようとしても無理があるしかし、神様は私達を造られ、愛されている。あなたのためになら御子イエス様の命さえ惜しまないほどです。イエス様の命を割ってでも、あなたを救わんとされる。わたし達はこの神様への愛を疑ってはいけない。神様は必ずあなたへ答えてくださるから。

 

話を戻し、↑を見ていきましょう。ソロモンは、日の下で悪を見、「それは権力者の犯す過失のようなものである。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいると表現します。

 

これは一言で言うと、必ず逆転の日が来る、ということです。あなたを苦しめるもの、問題、罪、サタン、全てに神様が打ち勝つ、ということ。権力者の犯す過失、それは決してあっていいものではありません。それは国を揺るがす問題となるからです。ここ10年近くの間でいくつかクーデターや、独裁者が倒れる、という現象を実際に見てきているから現実を帯びますよね。

 

それまで愚かだったはずのものが高い地位につけられ、それまで高慢だったものが引き下ろされる。聖書に「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」とあるのですが、まさにそれが現実なのです。私達が復習をする、なんとか頑張って引きずり下ろすのではなく、逆転させてくださる方がいるのです。だから、私たちは主なる神様に信頼し、委ねる。その中に神様が何かをなしてくださるのです。

 

確かに、「私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」とソロモンがいうように、確かに偉い人、また私達の周りにある問題が跋扈している状況もあるかもしれない。しかし、必ず逆転する。イエス様が、神の御子としてはありえない、小さな小ロバに乗って、エルサレムに入場された。換気に湧いている中、軍馬ではなかった。しかし、そんな小さなものにイエス様が乗ってくださるとき、私たちはイエス様にある勝利へと導かれるのです。

 

あなたの船、あなたという間、いやあなた自身の↑に誰が乗ってくださり、導いてくださっているのか、忘れてはいけない。自分で手綱を操り何とかすることもできる、でもそれには限界がある。しかし、最後逆転させてくださるのは、私達が沈もうとしている時も、心が打ち負かされそうになっている時も、その手を取引上げてくださるイエス様が、あなたがその手綱を委ねるのを待っている。

 

更にソロモンは続けますね。「穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる」と。自分が正しいと罠をかけようと、あなたを誘惑し陥れようとする問題も、あなたを塞ぐ、先に進めさせないなにかも、これは打ち砕かれるのです。何かを作り上げようとして、自分でなんとかしようとしてそれを形成し整えようとしてもそれがうまくいくとは限らないし、かえってより落ち込むこともある。誰がそれを形成してくださっているのかを私たちは忘れてはいけないのです。「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる」とあるとおりです。私達もいつも完璧ではないし、だからこそ、私達自身を神様に磨いでいただきつつ、神様にお委ねする、その中で神様の思う最高の姿へと整え、導いてくださるのです。

 

ソロモンは↑の最後で「しかし知恵は人を成功させるのに益になる。…知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。…人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。…彼は町に行く道さえ知らない」と述べますね。まさに、神様はあなたの益を望まれる。ときに厳しい言葉を語られる、試練の時があるかもしれない、しかし神様は共にその道を歩み、その先の栄光へと導いてくださるのです。

 

私たちはこの先を知らない。しかし、神様は完全な計画を用意してくださっている。この大逆転は、確かに今はあなたの周りの権力者、問題が跋扈しているかもしれない。しかし、イエス様が栄光の座につく時、完全な御国が完成する。私たちはここに招かれているのです。あの十字架、いのちをもってまで、人の目には愚かに見える十字架を、あなたのためならといのちをかけて受け入れてくださったのです。そしてあなたの石垣を打ち破り、あなたを神様の御国へと導かれる。今、その前味さえ味わわせてくださるのです。あなたのいのちの手綱を、斧を手にされているのはこれだけあなたを愛されているイエス様です。

 

私たちは一人ではない。一人で逆転させるのではない、イエス様がこの十字架にあって逆転を起こさせてくださる。だから私達は今日、イエス様に帰り、すべての重荷を下ろし、委ねよう。イエス様が導かれる命の道を歩ませていただこうではありませんか。明日何があるか私たちはわからない、だからこそ真の知恵なるイエス様に信頼し、委ね、歩もう。