「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることを、みなに知らせる。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから。」
伝道者の書10章1−4節
良い香水というのは、誰しもを受け付ける。逆に良い香水であっても、死んだハエ一匹でも、また別な匂いが混ざればそれは効果を大きくうしなう。私たちは良い香り、キリストの香りを放つものであろう。私たちの疑い、また証にもならない生活によってこれを汚さず、むしろキリストの命にあって熟させていただき、良い香りを放つものとさせていただこうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの書き残した伝道者の書10章前半部になります。彼は神様の憐れみによって王となり、知恵とともに富も名誉も与え、遠い諸外国のものたちまで彼の建てた神殿を訪問したり、彼の知恵を求めてやってくるほどだった。それは、彼の知恵が偉大だったからではない、神様の香りが漂う時、その栄光が私達を招いてくださるのです。神様のうちにこそ知恵、力、全てがある。
ただ、ソロモンはこれまでも分かち合ってきたとおり、彼の治世の後半は、合わせて1000人いる妻と妾のご機嫌取りに走り、神様への信頼を、信仰を失い、国は荒廃していくのです。神様が、その栄光によって輝かせてくださったのに、どんなに見かけだけ美しい神殿、宮殿を持っていても、それでは意味を失ってしまうのです。神様が、私たちのうちに働かれる、こうして私達は私達らしく、と言うよりも神様が最初に私達に持っていたイメージに近づけてくださるのです。
さて、話は↑に進めてソロモンは10章をこのように語り始めます。「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる」と。パンとかでしたら発酵させてこそ意味をなしますし、納豆も発酵食品ですよね。しかしここで登場する香水は話が違います。
当時の香油は、300デナリ、300日分の労働賃金もするほど高価だったようです。1日の賃金を8000円くらいに設定したら、いかに高価だったのかがわかるでしょう。しかも当時の香油は瓶のようなものに入っていましたから、一度割ったらもう終わりです。女性はこれを大事なときのために備えていました。しかも、今みたいな技術があるわけでもないこの時代、香油の製造方法は相当大変だったそうで、その苦労を考えると、たった一匹迷い込んだハエが混ざるだけですべてを台無しにしてしまうのです。
以前、ある美味しいラーメン屋さんに行った時、空いた扉かなにかからハエが入ってきて、私のラーメンに入ってしまった。もう食べられません。ちょっとした隙間、油断がせっかく店主が一生懸命スープからこしらえて作ったラーメンを台無しにしてしまった。また今の時代も、ちょっとした油断が命取りになることが数字になって現れていますよね。ソロモンの「少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い」と言う言葉の通り、これくらい大丈夫、もう大丈夫という愚かさ、油断はすべてを壊すほどに重たいのです。
香油にしても何にしても、どうそれを使うのかがとても重要です。自分の名誉、栄誉のために使っても一時で終わるなら意味を持たない。それはもちろん完璧人間であり続けるなんて不可能です。しかし、あなたの持てる香油、神様への信頼、信仰はかぐわしい香りを放ち、ただ自分をよく見せるのではなく、周りにその良い香りが広がる、神様のみ力が、御心が広がり、そこはある意味ではパラダイス、神様のご当地、守られ養われる、素晴らしい場所へと変えられるのではないでしょうか。
この香油について思い起こすと、聖書の中に有名な出来事がありますね。イエス様が十字架に掛かる前、マリヤという女性がイエス様の頭に大切に取っていた香油を注いだと伝えられるナルドの香油も300デナリの価値があったとされています。イエス様の葬りのために。自分の花嫁道具の一つとされる、300デナリもするものを。これはもったいない、死んだハエが入るようなものじゃないか、と思う人がいるかも知れない。
それに関して有名なのがイスカリオテのユダ。なんともったいないことをするんだ、と。それを貧しいい人に分け与えればいいじゃないか、と訴えるのです。まあ、本当は自分の懐に入れようとしていたんですけどね、彼は会計係でしたし。彼は会計係としてイエス様に任されていた、彼がその係を通して変えられていくことを願い、あえて。12弟子に入れたのもそういう思いがあったのでしょう、イエス様は彼が裏切ることを知っていながら、彼を連れ歩き、最後の最後まで愛を注いだというのですから。
それによって12弟子が汚されたとかそういうわけではない。実はレビという同じように会計をしていた人の書いた福音書には他の弟子たちも同様のことを言っていたことを記しています。むしろせっかく招かれ、イエス様が命あるものへと一生懸命調合しようとされる中で、裏切られるとわかってもなんとか悔い改めてほしい、と最後まで愛を注がれていた中で、彼はその命に、自分の罪や利己心、自己達成、目的を叶え「させる」など様々なものを混ぜ込んでしまったために、せっかくのこのイエス様の彼への愛を台無しにある意味してしまった。まあ、ペテロも裏切るのですが、彼は悔い改め立ち返ります。
ちなみに、イエス様はまりやにこのように言いました。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と。彼女の惜しまない信仰が、信頼の香りが街を覆ったでしょう。なにせ300デナリ分ですから。私達の内に死んだハエではなく、イエス様ご自身が住まわれ、栄光が現されるとき、私たちは思いもよらない、驚くべき光景を見るのではないでしょうか。
話を戻して、ソロモンは更に続けます。「知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることを、みなに知らせる。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから」と。右が良い、左が良い、そういう問題ではないのです。イエス様は魚がとれない弟子たちに右に網をおろしなさい、と言われ、そのとおりにすると多くの魚がとれた、という出来事がありました。それは右左の問題ではなく、これまでの習慣から方向を変える、悔い改める、神様が指し示すことに従う、ということなのです。神様がこっちに命があるというのに、あえて逆を行くのはそれは思慮にかけているというよりも、神様を侮ってはいないだろうか。神様があなたをどれだけ愛しているか。あなたに悪を行う神様ではないのです。むしろ善をなしてくださるのです。
それは神様のみ言葉が、神様のみ心が待ちきれず、信じられなくなるような場面はいくらでもあるでしょう。しかし、どんな状況であろうと、あなたを支配しようとするものが立ちふさがっても神様に信頼しよう。神様は、あなたのために御子イエス様のいのちをおしまず、あなたの罪の身代わりに十字架にかけられ、死なせた。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
怒りや不安にあなたの内側を支配させてはいけない。むしろここまであなたを愛されたイエス様をあなたの内にお迎えしよう、明け渡そう。冷静になり。そして神様の栄光を、かぐわしい香りを、御心を広げてください、そう祈ろうではありませんか。状況に左右され、振り回されるのではなく、イエス様が命がけで開いてくださった新しい命のうちをイエス様とともに歩ませていただこうではありませんか。そこに溢れるかぐわしい香り、栄光を待ち望み。
