「すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。私は自分の心にこう語って言った。『今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。』私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」
伝道者の書1章8−18節
新年を迎え4日。今日から仕事初めの人もいるでしょう。改めて今年の目標、抱負などを考え、実行しようとする。しかし、100%それを完遂するのは非常に困難。できるならとっくにやっていますから。私たちを本当に変える、新しくできるのは神様です。神様はあなたを良いものに、いのちあるものになってほしい。だってあなたは神様の創られた最高の作品なのだから。私たちは神社参拝とかしなくていい、神様はいつでもあなたの祈りを聴かれる。難しい手続きなんていらない。ただあなたが祈るとき、神様はあなたの声を聞き、最善を持って応えてくださる。私たちは神様の喜ばれる、最高のあなたに作り変えていただこうではありませんか。
さて、↑は昨日の続きになりますが、古代イスラエル王国3代目の王ソロモン王の残した書簡の一部になります。彼の名声は当時諸外国にまで響き渡り、彼の知恵を求めてわざわざ遠い国からくるほどでした。神様から与えられた知恵、それによって建て上げられた神殿、栄光、本当に素晴らしかった。一方で妻と妾あわせて1000人いたのですが、それは神様が与えてくださる知恵ではなく、外交を結ぶことによって国を強化しよう、そう考えた。1000という数字はある意味では神様への不信の数、なのかもしれませんね。
↑に入っていきますが、彼はこう書きます。「すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」と。彼の知恵は神様からのもの、自身も王になる前に認めていたように、若く、また父ダビデの功績を見てか、王国をどうして自分で納めることができるだろう、と神様に知恵を求めた。ここまでは正しかったんです。ダビデの功績は神様が与えてくださったもの。
しかし、自分の功績を追い求めるとこれほど虚しいものはない。昨日の、空の空、と出だしで始めた箇所のように、神様が私達を良いもので満ち溢れさせてく出さる、しかし空の器に自分の好きなものをいれておいて、後は神様つぎたしてください、じゃあなんにもならない。神様の与えてくださるものは全てに勝る、これを信じるか信じないか、それが私たちに問われる。もっともっと、わたしはこうしたい、ああしたい、その願いは良い、でも、問題はそれがふくれあがり、もっともっと、と貪欲になっていく。その先で、彼の外交政策、それによる国の堕落、次の子供に影響を与え、国家分裂を招いていった。それはそうですよね、人の考えをすべての人が受け入れる、そんなことを私はここ40年以上、様々な場面で見てきましたが見たことがない。
それは自分の思いがぶつかり合うから。そして妥協を生みだし、争いが生まれる。ソロモンは「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」と言いますが、普通に考えてもどんどん古いものが過ぎ去って、新しいものが生まれてくる。それはここ数十年を見ても発展がすごいですよね。
地にあっては、日の下にあっては新しいものはない。ではどこなら?神様は、昔も今も変わらない。その愛を、御心を、私達のうちに表したいと思っておられるのです。それは新年を迎えようと、時間が経とうと同じです。「『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう」とソロモンが言いますが、それはそうです。いずれ記憶から抜けていく。しかし、神様は新しいことを、罪に沈む、思い煩いに沈む私達のうちに起こしたい、と言うよりも回復させたいのです。
と同時に、私たちは神様の御名を、なされた大いなることを、世の中の目にくらまされて、記憶しているだろうか。人は悪いことがあると、いいことを忘れる、でも神様は悪いことはなされない。むしろあなたのうちに善をなしてくださるのです。
ソロモンは続けます。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ…」と。彼は王であった。しかし、神様から離れ、堕落していってしまった。どこから探り出そうとしたのか、外交、周り、人の有り様…
しかし、彼を王に導いたのは神様です。神様から知恵を授けられる、なのに神様を追い求め、自分が追い求めていたものがなくなったかのように考えがちですが、そうではなく神様は与えてくださる。その恵みであなたを覆い、新しくしてくださる、導いて、満たしてくださるのです。彼は「…『今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。』私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」と言いますが、神様の内には狂気と愚かさなどない。神様のうちにこそ、私たちが追い求めるべき知恵、知識がある。だからこそ私たちは神様を追い求め続けよう。神様はあなたのすぐとなりにいるために御子イエス様を遣わされたのですから。
神様は、あなたを自分が王、神かのように振る舞い考える、そのような私達を取り戻し回復させるため、御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この十字架の前にくい改立ち返るすべての人の罪を許し、罪人から、王ではなく、それ以上にこれほどまでに愛される神様の子、家族として迎え入れられる、その特権にあずからせていただけるのです。
その恵みたるや何たること。私たちは浮世離れした生活をしなさい、とは言いませんが「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変え(ていただきなさい)」と聖書にあるように私たちはこの神様の御小頃を、神様が良いことをなさると信じ、神様の御心を求め続けよう、神様の喜び、最高のあなたに作り変えられていくことを日々祈ろうではありませんか。