「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神』と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」
詩篇91篇1−16節
人には呼称のようなものがある。形容詞もそう。美しい、きれい、様々な言葉がある。でも神様にどんな形容詞が当てはまるか、私には想像がつかない。どのような表現でも足り得ない。神様は天の天も、治めることなど出来ない、大いなるかた。私たちは、この広い懐に抱かれ、いのちの内を歩ませていただこう。
さて、↑は紀元前に残された詩篇と言うものの一つです。昔も今も様々な問題が世の中にある。最近本屋で、キリスト教は2000年経っても何も変わらない、とこき下ろされていましたが、神様は変わらない、変わらず愛され、導かれる。神様は私達を、それこそ↑に「主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである」とあるように、神様は、私達を途中で投げ出すのではなく、守られ、導こうとされている。
しかし、私たちはこのやり方、この方向は私の思うものではない、とその翼から降り、好きに生きる、変わってしまうのはある意味では私達。私たちは何者なのだろう?神様は○○と言いますが、その前に私達は何者なのでしょう。どのような形容詞をつけるのでしょう。しかし、私たちはこの神様にどれだけ勝ることができるでしょう。勝ることができるなら、どうしてこれだけ思い煩い、様々な問題に打ち勝てないのでしょう。責任を神様に押し付けるけど、私たちはその真絵に神様のみ前にへりくだっているでしょうか。
詩の作者は「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」と歌っています。いと高き方とは誰ですか?全能者とは誰ですか?この中に自分を入れていませんか?いと高き方、それは神様、隠れ場に住むもの、それはイエス様、その全能者の影に宿るのは聖霊様です。↑の祝福は、この御子イエス様に繋がっていてこそ、とどまらせていただくときにこそ、受けることができるのです。私たちが主人公で、神様を理用するのではない、神様が私達を御側に引き寄せてくださるのです。
何たる感謝なことでしょう。「私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神』と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである」と、彼は歌う。彼は信仰者、でもどの時代に合っても様々な問題、迫害、戦いはある。疫病然り、何かの罠にかかるようなことがあるかもしれない。しかし神様はその大盾を取って私達を守ってくださる。私たちが自力で戦うのではない、神様が私達とともにおられ、戦ってくださる。
神様、あなたは後ろに下がっていてください、ではない、私達と共に主がどんなときにもおられ、力を注がれる。誰もいないのではない、だから自分がなんとかする、ではないんです。神様が、すべ治めてくださる。やがて、歌い手のように勝利を見る日が来る。御子イエス様があなたとともにいるなら、なんと心強い話でしょう。神様がその御翼で覆ってくださるのです。
私たちは神様の偉大さをどれだけ見ようとしているだろうか。信用しているだろうか。ちなみに隠れ場、の英訳はthe secret shelterとなっています。そう、神様は私達には想像がつかない、信じられないような素晴らしい大盾、砦、隠れ場となって守ってくださる、そこに招いてくださるのです。
歌い手は続けます。「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする…」と。その理由はまさに、神様こそ私たちがとどまるべき、休めるべき、養われる場所である、その時、神様が御使いにさえ命じて、あなたを守られるのです。
そういえば、サタンはこの箇所をイエス様を誘惑するときに引用してきましたが、イエス様はこのように答えられた。「あなたの神である主を試みてはならないと書いてある」と。私たちは神様の壮大なる計画、いや神様自身を見ていないからどうしても、あっちつかず、こっちつかずになる。そして試みて、試して、「自分の思う通りに行ったら」信頼してみよう、と試みる。
しかしそうではないのです。神様がはじめに愛を現されたのです。神様が、まず御子イエス様を人として生まれさせてくださった。完全なる神様の三位一体の関係の中から人となって生まれてこられ、神様であられるのに人としていき、その愛を現し続けた。どんなに裏切られ、罵られようと。最後は十字架に、私達の罪を身代わりに、イエス様にとってはいわれのない罪を背負われかかられ、死なれたのです。神様なのにありえない。でも、神様はあなたをもうそんなに言うことを聞かないなら、この旅路からおろしてしまおう、とはされない。み翼から降ろされない。むしろ、イエス様の復活とともにあなたを底の底から引き上げ、私達の想像もつかないシークレットプレイス、シェルターに招き入れてくださる。家族に、神様の子として招き入れてくださるのです。
「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」との最高の約束を御子イエス様の命にかけて神様は果たされた。これを受け取るかどうかはあなた次第。神様はその御翼を持って、今日も、明日も、天の御国に向かい導かれるのです。私たちはこの神様を求めよう。神様の素晴らしい私達の想像もつかない栄光を、御心を願い、仰ぎ見させていただこうではありませんか。神様の恵みの中にある長い命、救いを味わい、歩ませていただこうではありませんか。