「ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、『止まれ、立ち止まれ』と言っても、だれも振り返りもしない。銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ。破壊、滅亡、荒廃。心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる。…見よ。わたしはあなたに立ち向かう。―万軍の主の御告げ―わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす。あなたの使者たちの声はもう聞かれない。」
ナホム書2章8−13節
立ち向かう、それは対立であり敵対。それから更に踏み込んで、受け入れない、ともとれます。ときになにか間違っていることがある時にはそれに対して立ち向かう、立ち上がる必要がある。神様が立ち上がり、あなたと共におられ、導かれる。崩壊ではなく、神様のみ心に、御恵に満たされて。私たちはこの神様と共に歩むものであろう。対立するものではなく。
さて、↑の時代は紀元前、アッシリヤ帝国が跋扈していた時代です。その首都、ニネベに向かって神様はナホムという預言者を通して預言されます。それは彼らへの裁きの宣言になりますが、同時にこの神様に立ち返ろう、という神様のイスラエルへのメッセージでもあったのです。事実、神様はこのあまりにひどいゆえに滅ぼすと預言するように、とヨナに伝え、悔い改めた彼らを神様は赦され、100年ほどアッシリヤは裁きから免れることになりますし。
神様はどうして悪を赦されるのか?と思う人もいるでしょう。でも、悪ってなんですか?私たちがどうして誰かを罪に定めることができるでしょうか。それができるのは神様だけです。だからこそ、私たちは福音・神様の言葉を語る必要があるのではないでしょうか。また、仕え共に生きる、その中に神様のみ心を求めていくべきではないのでしょうか。神様は救いの道を用意される。それを選ぶかどうかは結局私達次第なのです。
あれが奪われこれも奪われ、と失ったものに私たちは↑の「銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ」という宣言のように奪われてしまったことに目が行きますが、そうじゃない、神様は私達にいつも銀・金・財宝どころではない御恵みを注がれている。私たちは神様が何を与え、されているのか、ここに目を向けるべきです。
ということで↑はニネベの陥落の預言、その続きになります。「ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、『止まれ、立ち止まれ』と言っても、だれも振り返りもしない。銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ」と神様は語られますが、水はある意味ですべての源となるものですよね。一方で、一度流れ出せば、どんなに止まれ、と言っても止める出来ない。池、別に蛇口で開け閉めするわけではないのですから。自分たちが源、頼っていたものが溢れ出ていってしまう、これほど惨めな話はないですね。
昨日見ました、「王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ」という部分だってそう。王妃、それはバビロンにおいては「天の女王」、カナンにおいては「アシュタロテ」、ローマにおいては「ヴィーナス」、シリヤでは「イスター」、エペソでは「アルテミス」、日本では「天照大御神」を表す言葉であることを見ましたが、それらに頼ってきたけど彼らは何も求めることは出来ない。存在しないから。
真の神様はただお一人、それを傲慢だ、という人がいるかも知れませんが、じゃあいるならなぜ留めないのですか?そんな金銀財宝が流れ出ることを。漫画にこれらが擬人化されて登場することもありますが、漫画と現実は違う。神様は現実なのです。名前が違うだけ?とんでもない。人間がこれを欲する、と思うものを像にしたに過ぎないのです。
話は脱線しましたが、それはそうです、天の女王にしても、水源にしても、頼りにしていたものを失ってどうしますか。何のために戦うのですか。何の大義名分があるのですか。アッシリヤの支配が及んだあらゆる国々の財宝等がニネベに集められていました。金銀のみならず、あらゆる尊い高価な品々が。持ち出す価値はもうない。だから捨てられていった。それは奪われていった。結局これは自分の大切なものだ、と思って神様のくださっている恵みに立ち向かい、保持していても、結局略奪されていった。
私たちは何を大切にしてこの一年歩んできただろうか。これまで歩んできただろうか。私たちは神様の恵みに目を向けず、ある意味で立ち向かい、大切な恵みを失ってしまう。しかし神様はこれらの金銀財宝に勝る大いなる恵みをあなたに与えたい。だってあなたは高価で尊い存在なのですから、神様の目から。
イエス様はある時、こんな話をされました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」と。それは、取り上げられることがないように、私たちが神様の奥義、神様ご自身を求めるとき、持っているものは更に神様の恵みが増し加えられていくのです。神様がくださっている恵みを失ってはいけない。神様はあなたにさらに恵みが増し加えられること、神様の愛が増し加わることを願われているのです。
二ネベという都市は古代世界の中でも並外れた難攻不落の都市でしたし。その中に住む者たちはだれもが完全に安全な都市だと思っていたに違いないでしょう。それゆえ失った時の悲しみは計り知れなかった。私たちはそのようなあなたでありたいですか?新年でありたいですか?どんなに強固な家やなにやらを建てようとも、それはかつてのバベルの塔のごとく崩れ去っていく。
神様はあなたを青ざめさせたいわけではない。むしろあなたを喜びに満ち溢れさせたいのです。詩篇に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」とありますが、まさに神様は私達が虚しくない、また神様が見張り、守られる強固な御国、神様の家族に私達を招いてくださっているのです。
↑の一番最後にこのように預言されています。「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。─万軍の主の御告げ─わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす。あなたの使者たちの声はもう聞かれない」と。「見よ、わたしはあなたに立ち向かう」という言葉は神様の敵に対しては決定的な滅びの言葉ですが、裏を返せば、神様の民に対しては、「わたしはあなたとともにいる」という神の約束なのです。
神様はあなたのために立ち向かってくださる。あなたとともにおられるため。そのため人となって生まれてきてくださり、私達のうちに愛を表し、導き、時に悔い改めに導き、最後には私達の罪を身代わりに背負われ罰せられ死なれ、しかし3日めによみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。あなたのために立ち向かわれ、共におられ導かれる。この恵みに。彼らはもう何も聞こえなくても、神様のみ心を求めるものには語られる。
燃やされた煙をあげるのではなく、今日私たちは祈りの煙をあげよう。イエス様はこう宣言された。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」と。失われ流れるものではなく、神様の溢れんばかりの恵みがあなたのうち2話きいでる、この復活の恵みによって。私たちは今こそ主に立ち返り、御心が、あなたやあなたのまわりに建て上げられていくことを切に祈ろうではありませんか。