ーあなたはどんなあなたになるのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。あなたがたは主に対して何をたくらむのか。主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない。彼らは、からみついたいばら。大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、かわいた刈り株のように、全く焼き尽くされる。あなたのうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ。主はこう仰せられる。『彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。』主はあなたについて命じられた。『あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。』見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、断ち滅ぼされた。」

ナホム書1章8−15節

 

十人十色、ということばがありますが、それはそのとおり。神様が私達一人ひとりを作られたから。もちろん両親を用いられた、ということもありますが。しかし、あなた、という人を形成していくのは神様。神様がその息吹を吹き込まれ、生きたものとなり、また誰の影響を受けて生きてきたかによってまた変わってくる。神様はあなたに、最高のあなたになって欲しいと願われている。今年も色々なことがありましたが、あなたはどんなあなたになりたいですか?

 

さて、↑の時代は紀元前、アッシリヤ帝国がまだ暴れまわっていた時代です。その首都、ニネベに向かって神様はナホムという預言者を通して預言される。それは彼らへの裁きの宣言であり、また同時にこの神様に立ち返ろう、という神様のイスラエルへのメッセージでもあったのです。

 

じゃあ神様は容赦ない方なのか?悪人は即・斬なのか。昨日も分かち合いましたが、このナホム書の時代より少し前(100年ほど前)、ヨナと言う人を神様は預言者として遣わされます。ニネベは特に恐ろしい国家、子供を火に通したり、ともかく残虐極まりない状態でした。だから神様は彼らに、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」とヨナを通して宣言されるのです。その時、何があったか。王から家畜に至るまで断食、悔い改め、アッシリヤの崩壊は100年近く引き伸ばされるのです。その後、セナケリブの時代にまた攻撃を仕掛けてくるのですが。

 

ヨナはそのことを知っていたから最初神様から逃げた。納得行かなかった。どうして自分たちを滅ぼそうとしている国家を許そうとするのか。しかし、神様はヨナに「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」と語られたのです。もちろん神様をしたい求める人達を神様は喜ぶ。でも、神様の恵みに行きられず、離れ苦しんでいる人たちもまた見捨てられないのです。

 

↑の冒頭にあるように、神様はとことん、どこまでも善・良い方なのです。慈しみの数々を、私たちが気づかないだけで、それは私のものだ、と言って無視していますが、注がれている、あなたはこの一年それをどれだけ体験してきただろうか。いや、それを神様に感謝しているだろうか。神様が、神様こそが私達を活かし導く、養われる方なのです。あなたという人を最善の、神様のイメージされ創られた本来の最高のあなたへと導きたいのです。

 

しかし神様はナホムを通してまた厳しい言葉を語られます。「しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。あなたがた(ユダ)は主に対して何をたくらむのか。主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない。彼ら(アッシリヤ)は、からみついたいばら。大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、かわいた刈り株のように、全く焼き尽くされる。あなた(アッシリヤ)のうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ」と。

 

私達は当時の時代の人間ではありませんし関係ないかもしれませんが、私達の周りにも霊的なアッシリヤ、様々な問題、罪、サタンの策略など、様々あります。しかし神様はそれを滅ぼし、闇に追いやられ、二度と立ち上がれないようにされる、と宣言されているのです。その中で、あなたはなにを思うだろうか。企み、どうせ神様は何もしてくれない、と勝手に決めつけて別な何かを求めるなど、企みはしないだろうか。しかし、どんなに神様に企む、邪なことを図ろうとするものが出ようとも、あなたを打ち壊そうとするものが出ようとも、神様に信頼し、その身を寄せる人に神様は数え切れない慈しみ、とことんまで善を成し遂げてくださるのです。これを信用するかしないかはあなた次第。

 

神様はナホムを通してなお告げられる。「主はこう仰せられる。『彼ら(アッシリヤ)は安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。わたしはあなた(ユダ)を苦しめたが、再び、あなた(ユダ)を苦しめない。今、わたしは彼(アッシリヤ)のくびきをあなた(ユダ)からはずして打ち砕き、あなた(ユダ)をなわめから解き放す。』主はあなた(アッシリヤ)について命じられた。『あなた(アッシリヤ)の子孫はもう散らされない。あなた(アッシリヤ)の神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす。あなた(アッシリヤ)はつまらない者であったが、わたしはあなた(アッシリヤ)の墓を設けよう。』」と。

 

神様が苦しめた?というよりも、私たちが神様から離れていく結果として苦しむ。神様は善にして善を行われる方。罪を一方で無視できず、回復を願うため、時には杖を用いられることもある。なんでも、ありのままでいいよいいよ、としていたらどうなるか、普通に考えても想像つきますよね。こらしめ、これを悪と言いますか?

 

ただ、もう神様に対して企み、神様から離れるのをやめよう、と訴えるのです。神様が戦ってく出さる、神様が彼らがもうこれ以上悪の種を蒔けないようにしてくださる、と約束されているのです。アッシリヤの名前から種がまき散らされることはない、と。

 

ミカ書でも見ましたが、北イスラエルは隣国のアラムと手を組み、南ユダに迫る、一方で南ユダは貢物によってアッシリヤと手を組む、ということがあったことを見ましたが、それは神様を信頼していない証。それは人間ですから弱いから気持ちはわかりますが、しかし神様は宗教ではなく現実に今も生きておられるのです。何を疑う必要があるのでしょう。神様が勝利される、と言うなら勝利されるのです。私達は何を疑う必要があるのでしょう。

 

実は種によって決まってきますが、あなたというひとは何の実によってなりますか?私達はイエス様の愛、いのちの種に生かされよう。↑の一番最後の部分は終わりの時のことをも指しているのですが、その嫌な前味は今の時代もちょこちょこ出てきている。私達は今こそ神様に立ち返ろう。神様はイエス様の十字架によって、私達の罪を身代わりに背負われ罰せられ死なれ、しかし3日めによみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。

 

平和の使者、あなたのうちに住まわれ、神様がどこまでも行われる善、その道に導かれる。ときに試練があろうとも、いのちさえ惜しまないイエス様が共におられる。あなたはどんなあなたになりたいだろうか。私達はこのいエス様にあるまことの命、種によって結ばれる最高のあなたに作り変えていただき、養われ、導かれ、歩もう。神様がこのいエス様にある救いの請願をあなたの内に現されるのだから大いに期待しよう。