「主はモーセに告げて仰せられた。『見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。…』」
出エジプト記31章1−11節
偶然、ということはない。神様はいつでも私達を導かれる。また神様がなされることに偶然はなく、完全なるマスタープランにあって成し遂げられる。それが十字架に架かられ死なれ、3日目によみがえられる、などと神の御子イエス様が背負うにはあまりに考えられないことでも。あなたへの愛のゆえに神様はなされ、建てあげられる。私たちはこのイエス様の命にあって今日生かされていることを覚え歩みたい。
さて、↑は神様が、エジプトの奴隷に約400年囚われていたイスラエルの民を、モーセを通して救い出された旅の途中、幕屋を立てるように(神様が住まわれる)と命じられた箇所になるのですが、ここも実はイエス様に関係する、イエス様が大工の家に生まれたことに関係してきます。
イエス様は聖霊様によって処女マリヤの胎に宿られた。彼女の許嫁、結婚相手は大工の家だった。貧しい家を選ぶのだったら、極論もっと貧しい羊飼いでもありといえばあり。たまたまマリヤのフィアンセが大工だった、のか?神様はヨセフをもイエス様の養父として選ばれている。そうすると、偶然とはとても思えない。
もしくは、もっと裕福な家でもよかったのではないか。イエス様が公生涯を歩まれ始めた中で、こんな出来事がありました。「イエスは…ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。…』こうして彼らはイエスにつまずいた」と。結局ぞんざいに扱われた。
でも、これは私達もよく陥る問題ですが、自分で自分の人生を組み立てる。諦めて小さくする、見栄を張って大きくするも、中身がない、などなど。でもそうではない、私達のいのちを、私達の人生を建てあげてくださるのは他でもない、イエス様なのです。私達を造られたのは神様。そしてその息吹を受けて、私達人は「生きたものとなった」のです。
話は↑の幕屋づくりに戻して、神様は幕屋を作るように命じた際、彼らが作るなら、そのうちに神様も共に住まうことを約束されました。神様は、私達が神様の恵みのうちに住まうことを願われている、しかし私たちは神様を追い出してしまった。受け入れなかった。だからイエス様が私達のうちに来られ、まことの幕屋を建て上げる必要があったのです。
その幕屋を建て上げる際(モーセの時代)、まったく形も何も知らない彼ら。すすんで捧げられた捧げ物によって十分な道具は揃っていた。必要なものは。しかし、見たことがないからどうやって建てあげたら良いのかわからない。神様がいくらモーセに言葉で示したとしても、それを具体的に実行することはそう簡単なことではない。もしくは、もっとこうしたほうが良い、ああしたほうが良い、と自分勝手に建てあげられる、その可能性もあった。
そこで、神様は「わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした」と語られます。神様は用いるべき人を見ておられる。知恵と英知と知識が最初からあったのではない、神様の霊にあって与えられたのです。ベツァルエルがたまたま?イエス様の育てる養父となるヨセフが大工だったのもたまたま?神様にとってたまたまはありませんよ?偶然はありませんよ?全ては計画のうちに進められるのです。
このベツァルエルという人ですが、この名前には面白い意味があります。このベツァルエルという名前、前置詞の「ベ」と「影(陰)」を意味する名詞の「ツェ―ル」、そして「神」を意味する「エール」の合成語なんだそうです。そう、神の陰に(いる者)、という意味になりますね。
詩篇91篇には、いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る、わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神なのだ、と述べられています。神様はなんとなく私達を生かす、なんとなく導く、助ける、のではなく、その知恵と英知と知識をもって建てあげてくださるのです。私達の避け所となり、砦となり、信頼すべき方として。
さらに、このウリの子とありますが、これは光を放つという意味を持っているそうです。とすると、光を照らす神様の影にいるもの、という意味になりますね。律法をよく知っているイスラエル人、当時の彼らに分かる形とした。神様は、私達にわけのわからない形で導かない。もちろんどういう事?と思うようなこともありますが、神様は示してくださり、また語ってくださり、また導いてくださります。ヨセフが大工であることとイエス様も大工であるという関係の中に、神様の家を建てるという御父と御子の関係をそうして見せたかったのではないか。
この方が、あなたのうちに「金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻」するように、あらゆることを成し遂げ、建てあげてくださる。あなたのうちに、そして神様の御国を建てあげ広げてくださる、イエス様が成し遂げてくださる。さらに、オホリアブというのは「父の天幕、父の幕屋」という意味、またその父アヒサマクの意味は「兄弟を支える」という意味になります。まさにイエス様を支える12弟子であり、また後の使徒、またあなたも支える一人となる。神様の御心がなる、神様の御国、これを支える、また誰かの建物を支える一人となるのです。
神様が自動的になんでもやってくれるから自分は関係ない、ではなく、私たちには私達への役割がある。それは人それぞれ違うし、イエス様に私達はなれない。しかし、イエス様は完全なる御国を建てあげてくださる。だからこのイエス様に信頼し、支えると言ったらおこがましいかもしれませんが、御心がなることを切に祈り、また遣わされているところに愛を表すものであろう。完璧な御国の完成は先かもしれない、しかしその段階を今踏んでいる。私たちは諦めてはいけない。神様の御心によってあなたのいる場所が神様の住まいとなることを切に願い、へりくだり、影となって、愛を持って仕えるものであろう。
イエス様は、はじめからおられた方なのに、受け入れられなかったのに、それでも諦めず、御国の完成のためなら、あなたが命を得るためなら、と神様であられるのに、人となって生まれてきてくださった。そしてその愛を持って建てあげていった。大工のように。神様の影のようになり、世に仕え、愛を最後まで現し、十字架に私達の古い幕屋を新しくするため、かかられ死なれた。しかし3日めによみがえられたことによって、私達を神様の家族へと招かれたのです。この復活のイエス様があなたを通して御心をなし、御国を建てあげてくださる。
影のように見えなく不安になるかもしれない。ないし、もっとこうしたほうが良い、ああしたほうが良い、と好き勝手に建てあげようとするかもしれない。しかし、私たちは神様に知恵を求めよう、神様の御心を求めよう。その霊に満たされ、霊的な大工たるイエス様の影となり、イエス様の光が、栄光が現されることを祈り求めていこうではありませんか。また兄弟を支えるもの、あなたの隣人の内に神様のいのちが溢れることをとりなし祈ろうではありませんか。イエス様の御降誕を待ち望んだ多くの人たちのように、今度はイエス様のみ心をによって、完全な膜や、御国の完成を願いつつ。