ーあの人でもこの人でもなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネによる福音書1章6−14節

 

クリスマス時期になるとイルミネーション、サンタ、恋人との時間…もうなんだかな、という雰囲気に街が変わっていきますが、クリスマスはもはや商戦的な感じに様変わり。肝心な何かを私達は忘れていないだろうか?求めるべきものを忘れてはいないだろうか。私達はクリスマスをイベントで終わらせるのではなく、いつもイエス様の恵みのなか歩ませていただこう。人となって生まれてこられたイエス様とともに。

 

さて、クリスマスシーズンということで今回はイエス様の12弟子だった一人、ヨハネという人が老年になって書き残した福音書から分かち合いたいと思います。

 

彼はイエス様の活動からよりも、むしろ結論的なところから入っていきます。イエス様が何のために来られたのか。どうだったのか?それは本当だったのか。ヨハネよりも遥か前に、彼の弟子だったマタイ(レビ)、ペテロの代筆としてマルコ、医者であり歴史家であったルカが福音書を聖霊様を通して書いています。今更、というほどに時間は経過していた。しかし、その何十年もの間、彼は多くの迫害を受けた。その中でもイエス様は間違いなく、神様の子であり、救い主、↑にあるように、恵みとまことに満ちておられた、と確信するのです。

 

イエス様が誕生して終わり、ならその箇所だけを残せば良い。でも私達はクリスマスという出来事だけに注目するのではなく、イエス様の誕生を通して神様の愛を改めて、知る必要があるのではないか。それがヨハネによる福音書に現れている。

 

堅苦しい文書になってしまいましたが、5節までは4日前に分かち合ったように、イエス様が来られた、いや、はじめから存在されておられた方が、今も、これからも導かれることを見ましたが、ヨハネはその間に、バプテスマのヨハネという人物を取り上げます。彼はマリヤのいとこ、ザカリヤとエリザベスの間に生まれますが、両親とも老年になり、それまで子供も与えられていなかった。しかし、イエス様が来られる道を備える、そのために神様は彼を用いられたのでした。

 

12弟子の方のヨハネは「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」と彼について証言しています。ヨハネほど優れた人はいない、とイエス様に称されたほどに最後の最後までイエス様について証していました。首をはねられる覚悟を持っても、王の罪を指摘するなど神様に忠実だった。

 

ある意味ではその当時のヘロデにとっては悔い改めるチャンスだった。だから殺さず捕らえていた(王の兄弟から乗り換え、妻となったヘロデヤの悪意によって結局殺されるのですが)バプテスマのヨハネは、自分が救い主ではない、他の福音書ではその方の靴の紐を解く値打ちもないほどだ、と言い、彼の弟子たちや群衆がイエス様についていくのに嫉妬するバプテスマのヨハネの弟子をたしなめるほど。彼は謙り、イエス様が来られた、神であられるのに、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とあるように、イエス様は来ようとされていた。しかも赤ちゃんになってまで。スーパーマンでもなんでもない、罪を犯さない以外同じ人間となってまで。

 

バプテスマのヨハネのもとに、多くの人が集まっていた。バプテスマを受けに集まっていた。そして悔い改めを訴え、神様に立ち返るように、と。しかしイエス様が来られて離れていかれることを決して嫉妬しなかった。自分のもとにもっと集まってきなさい、とは決して彼は言わなかった、自分に従いなさい、とは。あくまで悔い改めに導く、神様の愛を、メッセージを届けるものだった。

 

私達はそうしたプライドやなにやらで自分をイルミネーションのように着飾ってはいないだろうか。バプテスマのヨハネのほうがイエス様より半年ほど早く生まれている。自分のほうが先に生まれているんだ、とそれこそ↑の「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあるように、自身がイエス様を受け入れないのではなく、イエス様を受け入れた。イエス様の恵みが満ち溢れ、変えられていくことを何より願ったのです。

 

あの人の意見で、自分の何かで自分を着飾る必要はない。私達を輝かせてくださるのはイエス様、光となられるために来られたイエス様なのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と、12弟子のヨハネが証言するように、神様は私達が暗闇の中にいる、どうにもならない中にいる私達を見捨てられないがゆえにイエス様を生まれさせ、その間に住まわせてくださった。神様のご計画にただよって。人の意思ではない、神様のご意思によるのです。

 

そのためならどんなに迫害、罵られ、殺されそうになろうとも、十字架から降りたら信じてやるよ、と言われようとも、最後まで愛を全うされた。十字架から降りて天に帰る事もできたでしょう。降りることもできたでしょう。しかし、イエス様の願いはあなたが生きること。あなたの罪を身代わりに背負ってまで十字架にかかられしなれた。そして3日めによみがえられたことによって、神様のご意思によって蘇らされたことによって、神様に立ち変えるすべての人の罪は湯るされ、神様の子とされる、その特権を与えられるのです。神様が、あなたを輝かせてくださる。これに世は勝つことは出来ない。

 

私達は今こそ、古い自分のイルミネーション・思い煩い・罪、これら一切をイエス様の前におろし、外していただこう。そしてイエス様の満ち溢れる恵みに生かされ歩もうではありませんか。私達が無理して輝くのではなく、イエス様のこの命がけの愛、光によって輝かせていただける新しいあなたに作り変えていただこうではありませんか。