信じきれない理由 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

私達のまわりには様々な情報があり、信頼しつつも信じきれないことが多々ある。

それはそこに保証を見いだせないから。

でも、私達を保証してくださる方がいるということを忘れてはいけない、そして私たちが実現するのではなく、神様が実現させてくださるということを。

 

飯田敏彦牧師がとても素敵な記事を書いておられる。

イスラエルの民が、バビロンに連れ去られ、そこで屈辱的な生活を強いられたのは、聖書に書かれている神様から離れて、ほかの神を信じるという不倫というか姦淫の罪を犯したからである。

彼らは、「もうだめだ」と思い込んでしまい、いくら主が呼びかけても、応えようとしなかった。

 

このことは、私たちにも当てはまることがあるのではないでしょうか。困難や苦しみに遭うと、「このような状態では、どうしようもない」と考え込んでしまうことです。

 

神には、出来ないことは何ひとつないことを、聖書はいくども語っていますが、私に出来ないことは、神にも出来ないと思い込んでしまいます。それが「傲慢」という罪なのではないでしょうか。それが「神への冒涜」の罪ではないでしょうか。

 

多くの人々が、聖書に書かれている神を信じないのに、なぜ、私たちクリスチャンは神を信じていると言いながら信じることへの難しさを覚えるのでしょうか。それは、私に出来ないことでも、聖書に書かれている神には出来ると信じて生きていない証拠だと思うのです。

 

私たちが見ているのは、神ではなく、この世であり、そこにこの世の限界、人としての弱さがあるのではないでしょうか。

 

なぜ、そこからあなたの信じている神に助けを求めようとしないのか、その愚かさが罪だと指摘しています。

「わたしの手が短くて、あがなうことができないのか」

 

人の声にのみ耳を奪われ易い自分自身を悔い改め、朝ごとに神の声である聖書に心を傾け、そこから、主にある本当の力強い歩みを始めようではありませんか。

 

ー朝ごとに示されてー