「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
ヨハネによる福音書1章1−5節
今はアドベント・キリスト降誕節とよばれる時期なのですが、クリスマス時期だけイエス様が存在する、そういうわけではない、イエス様ははじめからおられ、そしてあのクリスマス前もときに応じて現れ、助けられ、クリスマス後も人として歩まれ、導かれる。そしてこれからも。私たちはクリスマスをクリスマスで終わらせてはいけない。アドベントとはアドベンチャーが語源となっているようですが、私たちはこのイエス様とアドベンチャーに出かけよう。
さて、↑は紀元1世紀、ヨハネというイエス様の12弟子の一人だった人が老年にあらためて聖霊様に導かれ、書いた福音書。すでに、マタイ、マルコ(ペテロの代筆)、ルカがそれぞれもう福音書をかきあげていた。でも、彼は後に導かれた。神様の愛は、止まっていないのだ、と。それを↑の最初の冒頭で改めて思わされる。そう、これはイエス様の復活、昇天後、だいぶ時間が経っている。でも精霊様を通して書くことを導かれたのはまさに神様の愛があのときで止まっているわけではなく、今も続いていることの証ではないか。
ヨハネは神様の霊感によりこのように書き始めます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と。これは天地創造の前の話ですから、当然ヨハネ自身の知識ではありません。ことば、正確にはロゴス、もっというとイエス様のことを指すわけですが、イエス様は神様が私達を救うために人として生まれさせてくださりましたが、同時に、ある時だけ、クリスマス時期だけ、存在した、というわけではなく、最初から存在する神様なのです。神様のみ思いはイエス様のみ思い。
クリスマス、イエス様にとっては神であられるのに人として、しかも人間になる、なんてどれだけ辛い話でしょう。しかしイエス様は、アドベンチャー、あなたのためなら、と降ってこられた。貧しい大工の家に。他の福音書でも、この福音書でもイエス様は愛を表しつつも、時に裏切られ、罵られ、最後には十字架にかけられ、死なれる。しかし、それはイエス様はわかっておられた。でも、神様の御思いを体現されたのです。見捨てられない、と。
あなたと共に神様もおられるため、十字架で神様とあなたを結ばれた。私たちは神様からはなれ、エデンの園は封じられた。もはや断絶状態であったはずなのに、それでも神様はあなたを、私達を見捨てられないのです。
さらにヨハネは続けます。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と。もちろん、これは一つは天地万物です。この世界に神様によって造られなかったものはない。知恵を与え、新しく出来たものはあっても、その知恵は神様がある人に与え、起こされていった。でも、私はこれを見てはじめからおられた神様が、この方によらずに出来たものはない、とわざわざ書き記す(すでに律法でその事実はわかっていること、当時の人達も)理由も見えない。
しかし、ずっと存在し続け、時に助け、導かれたイエス様(受肉前のイエス様)は、クリスマス前まで何もしなかったのではなく、ものだけではない、私達をいのちに満たすために、私達を建てあげてこられた、作り上げてこられたのです。
ヨハネは↑で「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」とさらに書き記します。この方が与えてくださる命にあって私たちは光り輝かせていただける、どんな暗闇にあっても、打ち勝つことは出来ないのです。
イエス様はあなたを永遠へと導くため、この命に導くため、暗闇の中にいる私達を救うべく降りてこられた。人として生まれてこられた。そして私達を見捨てることなく、私達の罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた。しかし、3日目によみがえられたことによって、このイエス様の迎えに来られた命がけのみ手を取り、悔い改めるなら、私達もまた新しくされる。この復活の恵みに私達もあずからせていただけるのです。
見よ、古いものは過ぎ去り、全ては新しくなった。あなたがこのイエス様を受け入れるとき、イエス様がなお世の終わりまであなたを導き、その御心、御力によって建てあげ続けてくださる。このイエス様の会い、命がけの愛、十字架によってなしとげられるいのち、私たちは大いに期待しよう。そこに輝く光は、たとえ闇に見える厳しい中にあってもイエス様が、共にあり、輝かせてくださるから。