「人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」
レビ記19章16−18節
隣人愛、愛。一体この素晴らしい教えはどれほどなのだろう。愛と言っても色々あるでしょうが、神様の愛に勝るものはない。私達はあれこれ難しいことを考える前に神様の前にへりくだり、その愛を受け、これに生きよう。
↑は神様がモーセという人を通して与えられた教え。律法というのですが、それは私達が幸せに、神様のめぐみの中長く生きるために与えられたもの。私達への神様の愛のメッセージなのです。特に↑は隣人愛について述べられています。
「隣人」と書かれていますが、これは隣に住んでいる人だけを意味するものではなく、あなたの好きな人も、苦手な人も、あなたの周りにいる人も指します。民は自分の好きな人だけを愛すれば良い、と考えている人たちがいた。私達もそうですよね。あの人達と仲良くしておけばいい、あの人達と付き合っているとろくなことがない、とか。
イエス様を試そうとしていたある宗教家が、この点をイエス様についてきました。その時、こんなやり取りがありました。「『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると彼は答えて言った。『【心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ】、また【あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ】とあります。』イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』イエスは答えて言われた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。【介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』彼は言った。【その人にあわれみをかけてやった人です。】するとイエスは言われた。【あなたも行って同じようにしなさい】」と。
自分はなんでもやっている。宗教的なことはなんでも守っているつもりでイエス様に仕掛けてきた。イエス様は隣人を愛する大切さを教えつつ、そんなことは小さい頃からしてきている、と。じゃあ良いことって何?というわけです。実際このイエス様の話された中に登場する人たちは、宗教的にとても尊敬を集めたい、それなりの立場の人達です。しかしそれぞれがそれぞれの事情で助けることを拒否した。自分も強盗に巻き込まれるのでは?これからの行事で死体で汚れてはいけないから、と。
ところが、当時サマリヤ人はユダヤ民族に嫌われていたのですが、しその彼はむしろ、同じ神様が造られた大切な存在、とアレコレ理由をつけることなく神様中心に考え、介抱し、宿代を必要以上に支払うことを約束された。
まあ、そんな完璧なことは正直私達人間には出来ない。でも、私達は自分は○○だから偉い、何々されるのは当然だ、とか、まわりを見下さないだろうか。クリスチャンもですよ?クリスチャン以外の人は認めない、とか、どうせ天国に行けるいけない、とか。そんな目で私たしは見ないだろうか。
実は昨日、仕事の帰り道、フロントガラスが凍結気味で、視界不良によって中央分離帯にぶつけてしまった。詳しくは明日のブログで書きますが、正直ショックでどうしたら良いかわからない。しかし、その中で神様の助けか、ちょうど近くに消防局があり、彼らがすぐに飛び出してきて、寒い北海道の中、よる、助けてくださった。協力してくださり、混乱している私を励まし、またどうしたら良いか、色々教えてくださった。警察の人も、また保険会社も、レッカーしてくれた人も、何より、駆けつけてくれた妻に感謝。
全部隣人なんです。誰が偉い、誰が偉くない、じゃない、神様は助けてくださった、ハレルヤ!で終わるのではなく、改めてどうせ〜の考えを悔い改めなければ、と同時に、彼らに福音が届くような、また良い証となるよう行動していきたい、と思わされました。
聖書の中の「人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」という部分。特に後半はイエス様が教える最も大事な教えのひとつなのですが、その前に、私達は隣人を中傷していないだろうか?どうせ〜と裁いていないだろうか、心の中で。彼らが苦しんでいる時に助けるために、私達のできることをスルーしていないだろうか。イエス様の話に出てきた宗教形のように。
警察は、私に優しく、でも戒めた。これからはこれこれこうしましょうね、と。妻も色々伝えてくれた。それは、愛ではない、ではなく、むしろ私が謙り、立ち返る機会となる。その中に主なる神様が御心を現し、また育ててくださる、立てあげてくださる。なにを〜と、復讐ではないにしても、思うそのようなことよりも、むしろ私達は、私は謙遜に、悔い改める、受け入れる、その必要性を覚えます。
何より、イエス様が、本来私達罪人、神様から離れ、捨てた民、私達を救うために来られた。神様であられるのに。私達が嫌っていたはずの神様が、神様と認めないでいた神様が、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、私達の隣人となられた。イエス様はどんなに奇跡を起こされても、愛を示されても、罵られ、辱められ、最後には罪もないのに私達の罪を背負い、私達を見捨てることなく、最後までその愛を全うするため、十字架に架かられ、死なれたのです。しかし、3日めによみがえられたことによって、私達にその完全な愛が表された。この愛を受け取り、悔い改めたち変えるすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
何という恵みだろう。私達は完全な隣人愛など持ち合わせていない。しかし、イエス様が隣人となられた。イエス様とのやり取りの大切な部分で「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性(いのち)を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とありますが、実はここにこそすべてがある。神様を神様とする、イエス様の十字架の前に悔い改める、その中に神様が心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、いのちを尽くしてあなたを愛され、栄光をさらわされる。仰られるからには神様も実行されます。あなたはこの愛を受けているだろうか。
あなたの隣人を通して神様は栄光を現してくださる。あきらめる、どうせ、あの人は何々だ、とかではなく、まず私達は神様に委ねよう。神様は命がけの愛を持ってあなたを導かれ、守られるから。あなたの主、だから神様はあなたを愛される。御子イエス様のいのちも惜しまないほど。あなたは神様を愛していますか?
