ー保たれ守られるためー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」

イザヤ書11章1−9節

 

最近はクリスマスシーズンの動きが早いですよね。先月末に日本でハロウィンで盛り上がっていたら、もうすぐにクリスマスモードに切り替わって。ただのイベントのように見て、今度は正月モードに切り替わっていく。何を信じて、何に期待をしているんだろう?何で心を埋めようとしているのだろう?あなたという人はどこにありますか?いますか?私たちは神様によって造られ、今こうして生かされている、この素晴らしい恵みを今一時覚えようではありませんか。

 

さて、待降節第一週、といういことでキリストの誕生が預言された箇所を見たいと思います。これは紀元前、神様がイザヤという人を通して語られた言葉になります。当時の時代背景を考えると、神様から離れた民ばかり、南ユダの問題と、バビロンによって捕囚されていく、という悲しみの預言がされていきます。まだ、しかし捕囚前の段階、神様がこうして語られるのは、彼らが立ち返り命を得るためです。

 

とはいえ、少なくともイエス様の誕生までこの預言から700年以上も先になります。今、語られたところで何になる?今の現状を神様は何もしてくれないのか?これは多分誰しもが思ったことがある、思うことかと思う。神様神様言っているけど、今の苦しみをどうして神様は放っておかれるのか?と。

 

しかし、神様は救い主誕生をそれでも預言、予め語られる。なぜ?神様は見捨てていないからです。見捨てるならわざわざ神であられるイエス様を苦労させて人間として生まれさせるなんてことはしないでしょう。しかし、神様は愛なんです。見捨てないゆえに、その一つの印としてイエスさまの誕生の預言をされた。苦しみの中に、変化する時代の中でどこに希望を置くのか?それは決して変わることなく愛され、愛を実行に移される神様に、ではありませんか。

 

そんなわけで、↑の預言を見てみましょう。神様は「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」と語り始めます。

 

エッサイって何?古代イスラエル王国2代目の王ダビデ、彼の父親がエッサイなのですが、そもそもこの家系もすごく、父親は異邦人の娼婦とイスラエル人の間に生まれたこの子孫。そして母親は神様からあまりにひどいので10代経ってもイスラエルに加えることは赦さない、と断絶宣言されたモアブ族から、イスラエル人ナオミと出会い、やがてそのエッサイの先祖と結婚する。

 

神様はそんな家系を選ばれた。捕囚されていく王国、しかし神様は切り倒された株を見捨てなかった。そこから出てくる新芽が若枝から出る、というのです切り倒されて終わりではない。神様はそこから若枝を生やさせ、そこに神様の霊、愛、すべてがとどまる、というのです。神様のすべて。

 

ところで、ここで出てくる「新芽」ということばには面白い意味があって、「大きな影響を与える」という意味合いが含まれています。ヤコブというイエス様の弟が書いた手紙でも、小さな器官である舌も、言葉によってある意味で良くも悪くも大きな影響を与える、と解説していますが、イメージ的に切り倒された気から出た若枝、そこから出る新芽に何の影響を人は期待するだろう。打ちのめされて、少し元気が出てきて実って、でも雨風にさらされれば失われかねない、と人は思うでしょう。

 

しかしそうではないのです。この新芽が繋がっているのは神様が語られる「若枝」です。この言葉の意味するところは、神様の恵みが千代にまで「保たれる、守られる」という意味と、「人も神の仰せにどこまでも従って守っていく」という意味、それがやがて、「実を結ぶ」という意味になっていく。そして大きな影響を与える。それこそがイエス様なのです。

 

一度は切り倒され、残った切り株、一体それに何の意味があるだろう。何を期待しますか。その木が成長する、回復するまで何年かかるだろう。私たちが打ちのめされ、苦しみ、罪に悩み、もうどうしようもない中で、何ももう残ってない、価値がない、生きる意味がどこにあるんだ?もう何の期待も持てない、そんな状況にあって、神様はそれでも見捨てられなかった。当時預言された対象は南ユダかもしれませんが、しかしあなただって切り倒された状態にあったらいや回復できるのか分からない。それは人間の手、自然の流れに任せていたら、嵐やら何やらが吹き荒れ期待できないでしょう。

 

しかし、生えさせる、と語られたのは神様です。大きな影響をあなたに及ぼし、豊かな実を結ばせてくださる、あなたを保ち、守る巨木に私たちは繋げられるのです。イエス様にです。神様があなたという人をイエス様を通して回復させてくださる。あるべき姿に回復させてくださるのです。そのために、神様はイエス様を同じ人間として生まれさせてくださった。ただ上から時々助けるのではなく、あなたのうちに来られ、人の間に住まわれ。

 

神様はさらに「それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」と語られます。

 

主を恐れる、あなたが古い切り倒された木を座り込み、眺めているのではなく、あなたのために人となって生まれるイエス様に立ち返ることを待っておられるのです。私たちはこの神様の木につながる、イエス様につながる中にあって、決して損なわれず、神様が持ってくださる。どんな嵐が来ようと、そこにイエス様がおられるのだから。

 

イエス様は来られただけではない、あなたの身代わりに切り倒された、来て終わりではなく、私達の思い煩い、罪、一切を背負われ十字架にかかられ、死なれた。これこそイエス様が来られた本質的な意味。そして3日目によみがえられたことによって、新しくされる、回復される。イエス様があなたの内に住まわれ、新しい巨木へと、多くの実を実らせ、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」とあるように、あなたを復活の恵みで満たされる。

 

神様は遠くから、苦しむあなたをそれはわたしから離れたんだから自業自得、と切り捨てるのではなく、眺めているのではなく、愛を実行に移された。あなたを取り戻し、いのちあるものとするために。私たちは世をただ眺め、諦め、仕方ないよね、で神様が創られた形を自ら失う、眺めて終わるのではなく、この十字架に立ち返り、このイエス様に生かされ歩もう。私たちが大きな影響を与えるのではない、イエス様に立ち返る、御心を求める、その中にイエス様がその見心、御力によって大いなる影響、実を結ばせてくださる。私たちは今こそ立ち上がり、立ち返り、主の十字架の前にへりくだり、この命のうちを歩ませていただこうではありませんか。