「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に【私たちの神】とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。』わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。」
ホセア書14章1−9節
告白、なにか悪いことをした後それをいうとスッキリする、隠していたことを話すとスッキリすることもある。私も今まで同僚に話していなかった痛みについて話したら、親身になって聴いてくれて、心が少し軽くなった。ならなおのこと、神様は私たちのことを心配してくださる。希望はどこにあるのか?神様にこそある。神様こそ希望。これは失望に終わることはない。私たちが神様に立ち返るなら、私達はこの神様のくださる希望に生きることができる。最後の手段が神様なのではない、本当の希望こそ、神様。私たちはこのことを覚え、いつも主に信頼し、歩もう。
ということで、ホセア書講解の最終回になります。↑は紀元前イスラエルの分裂時代に預言者ホセアを通して神様が北イスラエルに向けて語られた預言になります。その当時の北イスラエルの王はヨアシュの子ヤロブアムⅡ世。時代的には一応は平穏、繁栄、長期間に渡る王朝でした。しかし、それは神様によって支えられたものではなく、貢物やらなにやらで八方美人のようになり、何とかもっていた。
彼らは様々な問題に囲まれ、希望を失っていた。しかし、神様というこれまでイスラエルを導かれてきた神様を、これは私達には関係ない、このことについては信じてもしょうがない、あれは過去のことだ、とかそう色んな理由で神様に立ち返ることはなかった。そんな彼らに神様は預言者ホセアを通して語られます。
ホセア書の最初は預言者ホセアにゴメルという姦淫の女性と結婚するように導かれます。ありえない、しかし、彼は神様に従い結婚。しかし、途中不倫され、全く血の繋がらない子を彼女は産み、挙句の果てホセアから離れていく。しかし、神様入って、惨めに捨てられた彼女を買い戻しもう一度家族に戻ることを命じます。不倫したゴメルではなくされたホセアが銀貨を持って買い戻す、ありえない話だった。しかしこれこそ神様の愛。
この預言書がどれだけ厳しい内容だったか、これまで見てきた通りです。しかし、この最初のゴメルトのやり取りと矛盾する内容なのか?そんなことはない。まさに↑にあるように、神様に立ち返る、そこに望みがある。神様はいつでもあなたをご自身のうちに引き寄せ、癒やしたい。どれだけの代価を払ってでも、どんなに汚れ、また傷つけられ、罪に落ちていていもそれでも受け入れてくださる。
私達は神様を厳しい方、と誤解しやすい。もちろん神様は愛であり、同時に義です。罪を罪のまま放置できません。一般的に考えてもそうでしょう?罪を、良いよ良いよ、ありのままでいいよ、と言ったら、その人の更生、あるべきあゆみ、姿に戻る機会を奪うことになりますよね。また、放置していれば世の中混沌としていくことは言うまでもない。でも神様は同時に義であり愛な方だから、そのまま放置できない、回復させたいのです。
神様は預言の一番最後のこの章でこのように語り始めます。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に【私たちの神】とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。』」と。
私達は決して良いもの、と言えるほどの彼らの時代ではない。しかし、神様に立ち返る、悔い改める心ほど神様にとっての喜びはないのです。何も救うものは神様以外にはない、神様こそ主です、と立ち返ることほど喜ばしいことはないのです。唇の果実、決り文句を宗教的に言えばいい、というわけではない、どんな状況だからしょうがない、といういいわけではなく、神様助けてください、あなたこそ救い主です、それでいい、あなたのありのままの思いを訴え、立ち返ろう。
神様はあなたのことを聴いてくださる。語る神様であり、祈りを教えられた神様は聴かれる神様です。あなたのことを十分知っておられるから必要なことを語られる、神様はあなたのことをよくご存知、あなたを救う準備は万端。これを受け取るかどうかは私たち次第なのです。
神様はさらに続けます。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる」と。
癒やし、愛される。背信は離れ去った。神様がが怒りを治めて、完全に赦してくださったので、背信していた者たちが主のもとに立ち返ることができるのです。その道はいつも開かれている。神様が開いてくださった。御子イエス様の十字架によって、イエス様が私達の身代わりにいのちを差し出し、十字架にかかり死なれた、しかし3日目に読みが得られた、その事によって、悔い改め立ち返るすべての人にこの回復への道、希望の道が開かれるのです。
私たちの回復は、自然界、もちろんそれもあるのですが、あなたのまわりに至るまでその御恵が広がっていく。あなたがどんなところ、状況に生きようとも神様に信頼し、歩むなら、神様の愛をもって仕えるなら、そこに神様のみ心はあふれかえる。御国が広がっていく。私達はもうどこにも希望がない、という、でも、最初に見るべき方を忘れている、神様こそ希望なのです。神様から、御子イエス様を通して立ち返る道、神様に繋がる道、赦し野道、回復の道を備えてくださったのです。
希望は最初から存在する。神様のうちにこそ希望があるから。私たちはこの神様のみ胸に飛び込もう。神様は喜んで抱きしめ、受け止めてくださる。そして神様のことして受け入れ、あなたを歓迎し導かれる。神様が養い、導かれ、その栄光を表される。
私達は今こそ、「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。〇〇は私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に「私たちの神」とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです」と告白しようではありませんか。神様はあなたを孤児にされない。神様のこの言葉に言い表せないほど大きな愛に生かされ、この今の時代、置かれた場所にあって神様のみ心を求め、歩もうではありませんか。また、希望・福音を告白し続ける、語り続けるものであろうではありませんか。