「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない。わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。彼は兄弟たちの中で栄えよう。だが、東風が吹いて来、主の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。サマリヤは自分の神に逆らったので、刑罰を受ける。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる。」
ホセア書13章9−16節
意識的にトゲを自分に指す人はいないでしょうが、刺さると本当に痛い。抜く時も痛いけど。でも目に見えるならまだいい、目に見えずに私達を苦しめるトゲ、そうしたものは私達を苦しめる。病でもそうですよね。しかし取り除かれた先には神様にある癒やし、回復が待っている。私たちは自分の内に神様から離れ、生きる、阻害するトゲがないか、神様に探っていただき、取り除いていただき、聖められよう。神様はあなたを今日も待っておられるから。
さて、↑は紀元前イスラエルの分裂時代に預言者ホセアを通して神様が北イスラエルに向けて語られた預言になります。その当時の北イスラエルの王はヨアシュの子ヤロブアムⅡ世。時代的には一応は平穏、繁栄、長期間に渡る王朝でした。しかし、それは神様によって支えられたものではなく、貢物やらなにやらで八方美人のようになり、何とかもっていた。しかし、それはいつまでも持つものではなく、彼らの内に深く刺さったトゲとなり、最後はアッシリヤ捕囚に向かっていくのでした。
私たちは神様は何もしてくれない、と思う、勘違いしますが、果たしてそうなのだろうか。神様は隠れている、その恵みを隠されているのだろうか。しかし、神様は私たちの全生涯、あなた自身の内に一本の愛の柱を通されている。神様が隠れている、神様の愛を隠しているわけではない、私達が神様からそむけ、神様を信じて今何になる?とそっぽを向いているなら、どうして神様に文句を言えるだろう。
私たちは神様から離れ、様々なトゲを刺される。神様からじゃありませんよ?神様以外の関係の中で、痛み、悲しみ、またその関係を維持するためのトゲが刺さり、それが支障となり、また思い悩む。神様に立ち返り、抜いていただく、癒やしていただくのが一番、でも神様を信用しきれないのが私たち弱い人間。じゃあ代わりになにかくれるの?ととんでもない発想になるけど、そうじゃない、神様の愛が、あなたをどんな時においても貫き通され、あなたのうちに御心をなしてくださる。私達が荒れしてこれして、と要求するものではない、神様のご計画に信頼し、受け取る。
↑で神様はホセアを通して強烈な言葉を語られる。「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。…子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」と。
神様が滅ぼされたら、誰もあなたを助けることなどできない。神様が離れたら何も私達は恵みを受けられない。私達は神様の恵みにあって生かされるから。たしかに、「神様は何もしないでしょ?ほらこっちにおいでよ、私を拝めばこれらすべてを与えるよ」とサタンがイエス様を誘惑したように、助けの手を差し伸べてくれるものがあるかもしれないが、それは私達を決して活かすことができず、どこかでトゲとして残る。依存だったり、負い目であったり、支配であったり。
イスラエル王国誕生前、様々な敵が彼らを襲い、苦しめていた。同時に彼らに憧れを抱いていた。だから「私に王と首長たちを与えよ」と預言者サムエルに言った。サウルは神様から離れ、ソロモン王でさえ計1000人の妻とそばめ、彼らへのご機嫌取りからトゲとしてこれが残り、神様から離れていってしまい、ついに子供の世代で分裂する。神様を求めていた王たちはその治世は祝福された。しかし、そうでない王たちは、たとえこの時代のヤロブアムⅡ世のように長い統治であっても、結局トゲの刺さり、思い悩む長い統治であったに過ぎなかった。
結局アッシリヤに最後は奪い取られる。↑の「子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」というのはまさに、そのような時に結局彼らが奪い去られてしまう、そういうメッセージなわけです。なんと辛い話だろう。自分たちの頼ってきたものに結局裏切られる、裏切られないため、関係を続けるために自身の心を犠牲にする。よくありのまま、ありのまま、というけど、こんなありのままでいいのだろうか?私は私、あなたに口出される筋合いはない、それでいいの?
それでも神様はいう。「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。彼は兄弟たちの中で栄えよう」と。
「あわれみはわたしの目から隠されている」というから見捨てられている?そんな自分勝手に、自分の思う通りになる、操り人形のようにできる王、神を求める私達を。違う。完全に見放されているのではなく、今は「隠されている」だけなのです。あるのです。ただ一方で私たち自身が神様の呼びかけに答えず、アダムたちのように隠れていてどうしましょう。神様のあなたへ刺し貫かれている愛は決して失われることはない、が、これを拒否し続けてどうしますか。隠れているようで、私たちが神様に立ち返らず、隠れている、こんな自分など憐れまれるに値しない、と。しかし、神様は義とともに愛なる方。神様を呼び求めるなら、答えてくださる。
しかしこんな私達を見捨てられず、私達を様々な苦しみ、何よりよみ、死、罪から解き放つため、神様は御子イエス様を私達のために、神であられるのに人として生まれさせてくださった。見放されているなら、そんなことなどしない。しかし、それでもあなたへの愛を貫き通すために、この決断をされたのです。ただ助けるためならいきなり十字架にかかってもいい、でもその前に私達と同じ重荷を背負い、歩まれ、罵られ、それでも愛を現し続けた。
それだけではない、御子イエス様を私達の罪の身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。どんなに神様はイエス様を十字架からおろしたかったろう、罵る民を見て。それでも、あなたのうちを支配する様々な思い煩い、悲しみ、痛み、何より積み、サタンからあなたを解き放つために決断され、実行された。そして3日目によみがえられたことによって、復活とともにこのトゲを抜かれた。イエス様の前に立ち返るすベての人の罪を湯るし、神様の子としてくださる、同じ復活の恵みにあずからせていただけるのです。
私たちがこの恵みを受けるとき、失われた宝物庫は、神様の恵みに満ち溢れさせていただける。栄えに満ちた喜びを迎える日が来る。私たちは今こそ神様に立ち返り、この棘を抜いていただき、清め、新しくしてただこう。神様の恵みという宝に溢れたあなたへと変えられ、この暗闇の中にあってもここまで愛を貫かれるイエス様に従い、歩もうではありませんか。サタン、この世のトゲの支配から開放していただき、この命に溢れ、生きよう。