ー究極の出会いー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。『いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ』と。それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる。しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く。」

ホセア書13章1−8節

 

私達は時に妥協を求められ、一時的に屈しなければならなく感じる時がある。しかし、私たちが膝をかがめるべきは誰か。そんな屈辱にいつまで私達はさらされなければいけないのか。私達は神様唯一人、この方にのみ膝を屈めよう。膝をかがめる人は倒れない。どんな獣が、悩みが襲いかかろうとも、あなたを守られる主がおられるから。あなたは神様にあって食い尽くされることはない。

 

さて、↑は紀元前イスラエルの分裂時代に預言者ホセアを通して神様が北イスラエルに向けて語られた預言。その当時の北イスラエルの王はヨアシュの子ヤロブアムⅡ世。しかし彼らは神様を信頼せず、↑にも見られますがあっちこっちと手を結んでは離れ、を繰り返します。貢物であったり。

 

彼らの心はある意味で支配されていた。生きるには一時的に膝をかがめるしかない、口づけするしかない、そんな状況、ともかく自分たちのみを守るために八方美人となっていた。しかし、彼らは肝心なことを忘れていた。神様に膝をかがめることを。

 

神様は、その大いに恵みによって、私達を増し加えられる。神様は私達を始めに愛し、その祝福を注ぎたい。でも愛は一方通行では成立しない。だから神様は、支配するためではなく、この愛に生きられるよう、神様を心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして愛するするように仰られた。この関係の中にあって神様の祝福が溢れ、私たちが幸せな実を結んでいく。「多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木」とされのです。いかに苦難の前に屈しなければいけないような日であろうと、私達はこの神様の御心を願い、神様の前にへりくだり、膝をかがめたい。

 

↑に話を進め、ホセアを通した神様の言葉は続きます。「エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。『いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ』と」

 

エフライム、彼らの部族はある意味イスラエル民族の中心だった。かつて世界的飢饉にあったときにはエフライム族の元となるエフライムの父、ヨセフがエジプトで総理大臣となっていた。それに、エジプトで400年奴隷出会った時、神様からモーセを通して助け出され、政治の中心はある意味ではエフライムだった。約束の地を占領する時、その中心となったヨシュアはエフライム部族、その後、王国が分裂した際に、北イスラエル王国の初代王ヤロブアムは、やはりエフライム族の出だった。

 

そういう意味では彼らは神様の恵みを一番近くで体験し、目の当たりにしていた部族のはずだった。ヨセフも、ヨシュアも、共に神様をどんな苦難の中にあっても祈り求め、神様の栄光を見てきた。にもかかわらず、事もあろうに彼らを捕らえていたエジプトの偶像の中心の一つ、金の子牛像、これに口づけをせよ、と言い始める。何たる事。

 

確かにアッシリヤの危機は迫っているし、これまで見てきたように、自分たちが権力を握ろうと機をうかがう者たちが多かった。内外に問題が山積。だから、他国に貢物なり、彼らの言いなりになりながら、平和、繁栄を得ていた。でもそれは果たして正しいものなのだろうか。私たちは、自分を守るために様々な行動をしますが、屈するべき相手を間違えてはいけない。支配されてはいけない。あなたは他の誰のものでもない、神様の子です。神様の作られた作品です。

 

しかし、彼らはそれでも神様神様言っている場合じゃない、と神様を捨て、離れ、自分たちを具体的に、自分たちが思う理想のためなら、とありえない犠牲を払った。そこで神様は仰られる。「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる」と。

 

たしかに一時的には何かを得てもそれは保証されない。だからやがては、下手をすれば一瞬で翻され、裏切られ、私達の心は、魂はある意味で奪い去られてしまう、消え去る、虚しいものとなっていく。それはそうです。息もない偶像、自分たちの何かを守るために犠牲を払っても、彼らからしたら何の関係もない。彼らは彼らで自分たちの利することを考え、行動するでしょう。それはある意味でエフライム側も同じ。人間の弱さ。自分の利することを考える。自分だけいい思いをさせてくれる、なんてありえない。

 

しかし、神様は愛ゆえに自分の利を第一にするのではなく、むしろ私達をまず愛された。アダムとエヴァが罪を犯した、その後すぐ捨てることなく悔い改めの機会を与えた。それは人類の歴史みなそう。私達も、罪を犯した?ならもう知らない、と神様はそっぽを向かれなかった。

 

神様は「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。…わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く」と語られましたが、救うものがいない彼らを憐れみ、救い出し、水も食料もない荒野で毎日食料を与え、養い、戦いに勝利させ、導かれた。

 

神様は、あなたを引き裂きたいのではない、むしろあなたと出会われ、あなたを苦しめる霊的エジプト、アッシリヤ、思い煩い、罪、何よりサタンを引き裂くため、私達の内に人となって生まれてこられた。そして間に住まわれ、その愛を存分に表された。どんなに罵られ裏切られても、最後まで十字架上から降りることなく、私達の罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の前に悔い改めるすべての日との罪を赦し、神様のことして迎え入れてくださる。引き裂かれたはずの関係が回復される。

 

あなたの内から死は引き剥がされ、私達は神様の恵みを頂き養われ、生きるのです。あなたが生きることこそ神様の最大の喜びではないか。そのためなら自分の利よりも御子イエス様の命をさし出すことを選ばれた。一体どれだけ大きな愛なのだろう。

 

もはやあなたを屈服させ跪かせようとさせるこの世のものは存在しない。私たちはこの主の前に膝をかがめ、ただ主のみ心がなることを切に願い祈ろうではありませんか。委ねようではありませんか。荒野に道を、砂漠に川を流されるイエス様、この十字架に立ち返り、このイエス様から始まる天のみ国への旅路はもう始まっている、この救いを受取る時に。この旅はイエス様と一緒。私たちはこの方から離れることなくどんなときも歩み続けよう。あなたをこのイエス様の愛、救いから引きはなすことができるものは何者もないのだから。