みんなへの愛 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

昨日の投稿で(2つ↓)、孤独について少し触れましたが、

私達はこれを恐れる。

あの人はうまく行っているのに私は…

 

しかし神様は神様を呼び求める人を助け、救ってくださる。

 

チャールズ・ハッドン・スポルジョン氏はこう語る。

「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」(ヨエル2:32)

私はなぜ、主の名を呼ばないのだろうか。なぜ、神がすぐ近くにいて、私のかすかな呼び声でも聞いてくださるというのに、人に助けを求めて走り回るのだろうか。なぜ、すわっていろいろと計画を練るのだろうか。なぜ、すぐに自分自身を主にゆだね。重荷をお任せしないのだろうか。優れたランナーは、まっすぐに走る。私はなぜすぐに、生ける神に向かって一直線に走らないのだろうか。神以外のところに助けを求め、時間をむだにしている。しかし、救いは神のところにのみある。主は「救われる」と断言しておられるではないか。主を呼ぼうか呼ぶまいかと迷う必要はない。「みな」ということばは、きわめて広く包括的なことばである。「みな」は私を指している。神を呼び求めるすべての人が「みな」の中に含まれる。だから、この聖句を拠りどころとし、このように大きな約束をなさった栄光の主をすぐに呼ぶべきである。私は今、せっぱ詰まった状態にある。しかも、どうしたら解放されるのかわからずにいる。しかし、それは私が心配することではない。約束なさったお方が、解放の手段を探し出してくださるからだ。私のなすべきことは、主の命令に従うことである。あれこれと主に指図するのは私の権限外のことである。私は主の助言者ではない。主のしもべである。私は主の名を呼ぶ。そして救われる。