「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。主は彼に仰せられた。『あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る。』ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。『その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。』ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。主は仰せられた。『その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。』イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。」
ホセア書1章1−11節
人は失敗しながら少しずつ成長、少しでもしていければいいのですが、近視眼的になると、失敗している、間違った方向に進んでいることに気づかなくなる。それが怖い。それに気づかせてくださる方がいればいいのですが、それにさえ聴く耳を持たなければ話にならなくなってしまう。しかし、そのような状態から私達を救い出すために、神様は驚くべきことをなされる。日々日々。私たちは見るべき方、聞くべき方から離れず、歩もうではありませんか。
ということで、↑は紀元前、南ユダはウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、北イスラエルはヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアムⅡ世)の時代にあった出来事。神様は北イスラエルに向けて預言者ホセアという人を遣わしました。南ユダにはイザヤなど有名な預言者がいた、しかし北イスラエルにはホセア。小預言書と呼ばれているこの書簡、ホセアを通して神様が語られたことを残していきます。
ヤロブアムⅡ世、北イスラエルの初代王ヤロブアムは徹底的に神様を排除した、対抗した悪王の名を欲しいままにした一人。そんな彼のⅡ世を名乗るなんて、相当ですね。彼のように神様から徹底的に離れていた。そんな彼らを神様はもう↑を見ると完全に見捨てているように見える。しかし、神様はこのありえないことを通してその恵み、愛を示されるのです。
そもそも神様を捨てたはずのヤロブアムⅡ世のところに神様がわざわざなぜ預言者を遣わされたのか。預言者というのは、神様のメッセンジャー、つまり、神様の目は彼らに向いていた。見捨てているなら勝手に滅びなさい、と絶縁宣言するでしょう。しかし、あえて預言者を遣わすのは、まさに悔い改めに導く、神様のもとに立ち返り命を得てほしい、それが神様の願いなのです。
ホセアは小預言者?関係ない。その人が大きいか小さいか、有名か、有名じゃないかなど関係ない、そうだから聞く、そうじゃないから聴かない、そんな話ではないのです。私たちはどんなことにあっても神様が何を語られているのか、導こうとされているのか、ありえないと思う中でしっかりと神様に祈り、聴き従いたいものです。
話を進め、神様はホセアに驚くべきことを語ります。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」と。預言者は分かりやすくいうなら今で言う牧師や伝道師、宣教師、神父さんとかそういう人です。そんな人に、「姦淫の女」をめとり、その子らを引き入れる?ありえない話。しかし、「そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった」とあるように、ホセアは躊躇なく実行します。
そもそも偶像崇拝、姦淫の原因は相手を知らないことにある。本来の神様、本来のパートナーの素晴らしさを知らないゆえに走る。北イスラエルはそれほどにひどい状態になっていた。だからこそ、神様はそんななにも知らない、神様の本質の愛を知ってもらおうと、ホセアを通して、誰からも見向きもされないような女性、ゴメルと結婚することを決断したのでした。驚きですよね。神様は「この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」と言っているんですよ。でも、その彼らを受け入れるようにというのです。
私はここを読みながら思わされたのはホセアの決断。普通に考えたら、そんなの受け入れられません。そんな事をして何になりますか!しかも預言者で、相手が姦淫の女?冗談でしょう?と思うでしょう。私達だって、なんでそんな事をしなければならないの?こんな状況下で、そんな事をして何の意味があるの?と思いたくなることだってあるかもしれない。祈って何の意味があるの?神様を信じて何になるの?でもそうじゃない、すべて主導されるのは神様。私たちは、この口、心、身体を主に委ねるとき、神様が事をなしてくださるのです。
さて、まず第1の子が産まれます。この子に神様は、イズレエルと名前をつけるように神様は仰られました。このイズレエルという名前の意味は↑だけではわからないのですが、「散らされる」という意味と「実を結ぶ」という両面の意味を持ち合わせています。
でもここに神様の愛がある。散らされる、けど回復の約束も伴われる。その御手は伸ばされ、神様のみ思いは注がれ、この御手を受け取るとき、私たちは回復に引き上げられるのです。第2子のロー・ルハーマーの前の意味は「あわれまれぬ子」「愛されぬ者」、第3子のロー・アンミーの意味は、わたしの民ではないという意味です。
神様はなぜそんな名前をつけさせるのか。それが神様の思い。でも、最初のホセアとの子、神様が遣わし与えられた子を通し、たしかに一度離散する、しかし、神様は彼らを、私達を回復させたい、と願っているのです。ホセアの行動もそうですが、こんなことをしてどうする?と思うようなことはこのご時世特に多くあるかもしれない。しかし、姦淫・偶像崇拝の理由は神様を知らない所に本質がある、と書きましたが、彼らは神様が遣わしたホセアを通してなされる愛、私達にはイエス様を通して成し遂げられた愛をしっかりと見つめる必要がある。
神様神様言っても仕方ないでしょう、と離れていく、自ら神様から離散していく私達を見捨てず、私達の罪の身代わりに御子イエス様に私達のすべての思い煩い、罪、一切を背負わせ十字架にかけ、死なせたのです。本来私達が憐れまれず、愛されぬ、死んだ者となるはずだったのが。しかし3日目にイエス様がよみがえられた事によって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は取り除かれ、神様の子とされる、新しくされる。回復される。この復活のイエス様が私たちのうちに実を結ばれる。どうしてこんなことが?と思う中に神様の実が実り、命の泉が溢れるなら、復活のイエス様があなたのうちから働かれていく時に何が起こるか。
私たちはホセアのように、それでも神様に期待しよう。この目、心、身体、全てを神様に向けよう。神様のみ前に委ねよう。神様の栄光を私たちは仰ぎ見させていただける。こんな事をして何になる?の前に一番最初にスべきは神様に委ねることです。自分でするわけでもなく、意味ない、無理と諦めるのではなく、全能の神様に委ね、この実に生かされ歩もうではありませんか。