ー目の上のたん瘤?欠けてはいけないことー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。彼は出陣してペリシテ人と戦ったとき、ガテの城壁、ヤブネの城壁、アシュドデの城壁を打ちこわし、アシュドデの中の、ペリシテ人たちの間に、町々を築いた。神は彼を助けて、ペリシテ人、グル・バアルに住むアラビヤ人、メウニム人に立ち向かわせた。アモン人はウジヤのもとにみつぎものを納めた。こうして、彼の名はエジプトの入口にまで届いた。その勢力が並みはずれて強くなったからである。ウジヤはエルサレムの隅の門、谷の門および曲がりかどの上にやぐらを建て、これを強固にし、荒野にやぐらを建て、多くの水ためを掘った。彼は低地にも平野にも多くの家畜を持っていたからである。山地や果樹園には農夫やぶどう作りがいた。彼が農業を好んだからである。さらに、ウジヤは戦闘部隊をかかえていたが、彼らは、書記エイエルとつかさマアセヤによって登録された人数にしたがって各隊に分かれ、王の隊長のひとり、ハナヌヤの指揮下にいくさに出る者たちであった。…こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。すると彼のあとから、祭司アザルヤが、主に仕える八十人の有力な祭司たちとともに入って来た。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。『ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。』ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にツァラアトが現われた。祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はツァラアトに冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、この国の人々をさばいていた。ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。ウジヤは彼の先祖たちとともに眠った。人々は彼を王たちの墓地の野に先祖たちとともに葬った。彼がツァラアトに冒された者だと言われていたからである。彼の子ヨタムが代わって王となった。」

Ⅱ歴代誌26章3−23節

 

人の顔色をうかがう、これほどやっかいな方はいない。というのも本性が見えないから。どこに考えの基準をおいているのか、これがよく見えないのです。だから人によって態度を変えたりもすることもある。これ、どこにでも見られますよね。私たちは神様を愛するように、隣人(苦手な人も含め)を愛そう。神様は、その中で大いなる栄光を現される。神様抜きの歩みに、神様の祝福はない。神様を中心に、私達は歩もう。神様のみ心、御業という業績が、あなたの内に刻まれていくから。

 

さて、ここ数日預言者のことばを分かち合ってきていますが、その中にイザヤという人がいましたね。彼が活動していた、神様から召命を受け、働いていた時期は、紀元前、まさに↑のウジヤ王が王としてイスラエル国家(南ユダ)を治めていた時期から始まります。

 

神様は虚しいことは、無意味なことはされない。いつも神様のみ心をこの地に注ぎたいと願っておられる。預言者イザヤを↑のウジヤに遣わされた、ということは大きな意味があるのです。当時、南ユダ王国は、ソロモン王が繁栄していた時代以来となる、とても祝福された国家となっていました。強大な軍事力を持ち、西と南の海洋基地としての港を支配することによって、経済的な繁栄を誇る国となりました。ウジヤのある時までは。

 

↑で見るように、ウジヤが「彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた」とあるように、まさに彼のメンター的に置かれていたゼカリヤがサポートしていた間は、神様を求め、祝福されていた。しかしゼカリヤが召されると「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した」とあるように、そこからガラリと変わっていきます。

 

彼は何を求めていたのでしょうか。父が神様に従い祝福を受けていたのを見て、ああ、神様に従うことが大切なのだ、と考えたのか。そして彼も16歳、高校生くらいの年齢ですね。わからないこともたくさんあった。だから神様はゼカリヤを置き、さらに彼を導こうと、祭司アザルヤを送りますが、彼を責め立てます。また彼が悔い改めたち帰れる、正しい道に帰れるようイザヤをも遣わした。しかし彼は聞く耳持たずだった。

 

なぜ?彼はなぜその様になってしまったのか、変わってしまったのか。根本的に私たちは神様なしでは生きることは出来ないのです。実は彼の本名はアザルヤと言います。ウジヤという名前の意味は、主(神様)は力、アザルヤは主(神様)は助けるという意味だそうです。なぜアザルヤがウジヤ王と呼ばれるようになったのか、それは本来彼が得ていた↑に見るような栄光、繁栄、力というのは、神様からくるものなんだ、それを思い出させる意味も込めて、ウジヤと呼ばれ始めたのでしょう。

 

面白いことに、このアザルヤの名前にあるヘブル語の単語から、「自分の生き方、行動の土台をなす『思考、考え』」を意味する文字が抜けたのが面白いところ。彼はそれをなんとか自分で取り戻そうとした。でも、結果得たのは、自分の繁栄ではなく重い皮膚病、ツァラアトだった。神様がくださる恵みによって本来生きるのです、神様という土台があって私たちの命は築き上げられる、神様のみ心、道からという名の業績によって、私達は築き上げられるのです。しかし、彼は神様を外したことによって、別なものが混じり込んでしまった。苦しみが。

 

ツァラアトに限らず、私達は神様から離れるとき、様々な戦い、思い悩みに苦しめられる。土台、神様が支えてくださる、それを私たちが忘れ、人の顔色をうかがって、ときに応じて土台を変えようとすれば崩れるだけ。どんなに人の顔色をうかがったり、自分の考えと違う、と目の上のたん瘤がなくなった途端態度を翻していれば砂の上に家を立てるようなもの。それでは嵐が来れば崩れ去る。

 

しかし、神様はあなたをあるべきあなたとして回復させるため、あなたのうちにあるツァラアトという名の思い煩い、悲しみ、痛み、何より罪を取り除くため、御子イエス様を十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改める全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

この命、土台の上にあなたを新しく建てあげてくださる。神様の御心、御力、愛という名の業績によってあなたは築き上げられる。何という喜びだろう。神様を目の上のたんこぶなどと思う必要はない。なぜならあなたのために命まで惜しまない方なのだから。あれこれ支配するためではなく、あなたに命をもたらすため、あなたを導かれる。命がけで、世の終わりまで。今日あなたはこのイエス様が立て上げてくださっているいのちをどう生きるだろうか。