「『人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目の前で、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。』」
エゼキエル書28章21−26節
私は生まれて10回近く引っ越しをしています。そのたびに仲良かった友と離れたり、東京で働いていた頃はそれでも周囲に足を伸ばせば何とか会える方々も多かった。でも今はそうも行かない。そう考えると定住ってなんだろう、と思う。何によって安心が得られるのか。仕事なのか、住居なのか。ああ、神様に繋がっていること、神様が共におられるその住まいこそが安住なんだ、今は仮住まい何だ、ということを改めて思わされる。あなたはどこに安住を求めるだろうか。
さて、↑は紀元前、南ユダ王国がバビロンに捕囚された頃に活動していたエゼキエルという預言者を通して神様が語られた言葉の一つです。これまで何度か書いてきましたが、神様はイスラエルを捨ててはいなかった。捕囚された地で助けびとを置かれていた、その一人が預言者エゼキエル。預言者を神様が遣わされるということは、その人をお通して神様は語られる、まさに神様が見捨てていないという希望そのもの。でも、昨日、一昨日分かち合ったように、それでも、聞かなければ意味がない。内容が厳しいことであっても神様が善へと導かれる、一緒に。その事を忘れないでいたいものですね。
さて、ここはシドンというところに向けて預言、宣告される場面なのですが、シドンというのはどこか、というと北イスラエル王国の中にあったアシェルという部族に割り当てられた地方です。実は面白いことに他の部族はともかく、占領を受けたことはなかったようです。
というのも、イスラエルの民が王国を気づく前、神様が先祖たちに与えると約束され達についたとき、このように記述が残されています。「アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである」と。追い払わずに、彼らの文化に溶け込んでいった、と言ったところでしょうか。
神様からは与えられた、割り当てられた土地を価値のあるものとしては見なかった。だからそこを取り戻し良いところとしていく、という感覚がなかったのでしょう。占領されなくとも、結果神様の祝福を大いに受けることはなく、混じりけのある複雑な文化となっていった。
神様はエゼキエルを通してこのシドンの住民に「人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」と語り始めます。
多分なのですが、自分で神様に立ち向かっている、という感覚がある人はあまりいないと思う。というのも、多くの人が神様という存在を認めない、ないし、意識していない、自分には関係のない話だ、と神様が下さった地を、いのちをないがしろにしている。神様が祝福されると約束されているはずなのに、それは私には関係のない話、と。これは私のものであり、私がどうしようと勝手でしょ?という感覚が、まさに立ち向かう、ということなのです。
だから、ある意味では神様から離れているのだから見捨てられても当然ですし、立ち向かわれても自業自得、今の時代なら自己責任と言われかねない。でも、そうじゃないのです。神様の愛は。この短い神様の宣告の中で、立ち向かう、でも神様の栄光をその中に現される、裁きを下す、でも聖なる事を示し、神様が主であることを知らせて下さる、というのです。
預言者、というのは分かりやすく言うと神様のスポークスマンです。エゼキエルに顔を彼らに向けよ、ということは、神様ご自身が彼らに顔を向けておられる、ということです。神様が顔を向けておられるということは、神様が心配してくださっている、神様が何かを仰られるということは、その人を思ってのことです。何故言うのか?神様があなたに命を得てほしいからです。
神様に立ち向かえばそれは、神様が導かれる道と違いますから、それは、問題が起きたり、辛い道を通ることもあるでしょう。それはそうです。しかし、神様があなたにその御顔を向けておられるから、神様はなんとかしてあなたに命を得てほしい、立ち返ってほしい、と願っておられるのです。捕囚中、どれだけ辛い事があるか。神様はエゼキエルを通して「わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる」と仰られているような苦難を通ることがあるかもしれない。
彼らは様々なものに迎合していた。だから、ある意味で彼らと一蓮托生。私たちも様々な中で迎合しなければいけない時も多い。しかし迎合しなければ生きていけないのだろうか?神様はそれらを取り除かれる、その栄光を現されると約束されているのです。そこから解放されると約束されているのです。実際イスラエルの民はやがてペルシャのクロス王を神様が彼の霊をゆすられ、解放に向かわせたように。神様は主なんです。神様なんです。迎合しなければやっていけないではなく、神様に信頼しついていこうではありませんか。
確かに私たちはこの世の旅人、様々な問題はあるかもしれない。しかし「神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目の前で、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう…」とエゼキエルを通して神様が語られるように、彼らは解放され、私たちもまた罪の縄目、サタンの支配、死から解き放たれ、神様の家族とされる。そのためにイエス様を十字架にかけて死なせたのですから。
しかし3日目に蘇らせてくださったことによって、これら全ての縄目から解放され、私達は神様の家族とされる。神様がともに住み着き、安らかに私達は神様に導かれるのです。どんな大変なときであっても、神様がそのぶどう畑から収穫を与えるがごとく、あなたのうちから、復活のイエス様が励まし、力を与え、また導かれる。やがては天の御国に迎え入れられるのです。
何たる喜びでしょう。永遠の、栄光ある御国に招き入れられる、そのスタートが、このイエス様の十字架による救いを受けとったときから始まる。イエス様が世の終わりまで導かれる。どんな辛い中に、迎合しなければいけないことがあっても、神様が道を示され、語るべき言葉も与えてくださるでしょう。私たちはこの神様に繋がり、歩ませていただこうではありませんか。そこに見る神様の栄光、実をいただき歩ませていただこうではありませんか。