ー光ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。」

詩篇119篇105−112節

 

光というものは光源となるものがあるから光ることができる。でも私はもう疲れた、といって光を消されてしまったらどうするだろう。同時に私たち自身の手で、この光は役に立たないから、と消すことはあってはならない。イエス様は世の光。LEDが普通の電球よりも効果がある、そういうレベルを超えて、あなたを永久にその道を寺生続けたいのです、神様は。私達は神様が照らし導かれる道を歩ませていただこう。神様が導かれるなら、それはどれだけ素晴らしいものか、大いに期待しよう。

 

さて、↑はいろは歌のヘブル語版14段。↑の詩の作者であるエズラは紀元前、バビロン捕囚期〜バビロン捕囚開放後まで生きていた歴史家、それと同時に神様の愛を人々に伝える人でした。彼の生きていた時代は人の目から見たら本当に暗い時代だったでしょう。捕囚され、自由を奪われ。何に期待をしたら良いのかわからない。

 

しかし、私たちが諦めてしまって、この道に進むのをやめよう、神様に頼るのをやめよう、としたらどうして神様のくださっている恵みを恵みときづけるだろう。しかし彼は、捕囚地にあっても、解放後であっても変わらず神様が光を灯し、いっときだけではなく導かれている素晴らしさを詩にこうして残し、また民に語るのでした。

 

ということで今日の14文字目はנ(ヌン)、テーマは光です。光が灯されているからこそ、私たちは暗闇の中にあっても安心感を持てますし、行くべき道、照らしている存在に喜びを覚える。希望を持つことができる。真っ暗な中でずっといる感覚はどれだけ大変なことか。

 

私の曽祖父は若い頃に完全に視力を失い、希望も何もかも失った。当時名声を失った。様々な哲学、宗教を見ても光を見出すことは出来なかった。しかしある伝道師と出会い、自分の視力が失われていて、回復しないから希望がないのではない、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」という御言葉に触れ、神様が自身のうちに働かれ、栄光を現してくださる。神様が、光となってくださる、その喜びにあふれ、どんなに凍傷になりかけても、石を投げられ、バカにされようとも、イエス様の愛を伝えることを止めませんでした。

 

と、話は横道にそれましたがエズラはこの14文字目のנ(ヌン)の段を「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と歌い始めました。聖書を読んだことがある方なら一度は聞いたことはある箇所だと思いますが、これは本当に素晴らしいですね。かみさまのことば?それを読んで何になる?違うんです。その御言葉を信じ受け入れる中で、あなたのうちに実現する。いや、神様が実現させてくださるのです。かみ様が、どんな暗闇の中にあっても、苦しみの中にあっても、他の誰でもない、「あなたの」ともしびとなり、「あなたの」道の光となられるのです。

 

私には神様は答えてくれないじゃないか、どうして他の人はああなのに、自分にはこうなんだ?と。隣の家の芝は青く見える、とよく言いますし、十戒でも、隣の人のものを欲しがってはならない、ともあります。なぜ?神様があなたにはあなたへふさわしいものを与えてくださっているから。それを私たちが信頼せずにどうしますか。他の人は他の人、あなたにはあなたへの神様の思いがあり、導きがある。どんな辛い中を通っても、あなたと一緒にイエス様が導かれるのです。慰め、励まし、力付け。一緒に。

 

私の子供の好きな、ある牧師が書いた絵本の中で、目標地点に行くのが苦手だ、というケースが出てきます。私の知る限り、2つ。1つは、行くべき道をしっかり見て、そこから離れないようにする。もう一つは自分の上にある信号をしっかりと見つめる。他の人の信号ではない、自分に照らす信号、これをしっかりと見て進むんだ、と。行くときに行く、止まるべきときには止まる。

 

いずれも光源であるイエス様であり、信号はみことばそのものです。私たちはイエス様が一緒に歩まれる。イエス様が世の光となり、遠くから照らすのではなく、一緒にその道を照らし、導いてくださるのです。あなたに語りかけ、道を示されるのです。命の道を。

 

ちなみにユダヤ人にとって光は単に暗さを明るくする光源以上の意味を持っているそう。光は神様と人との交わりを表わす関係概念なのだそうです。それはそうですよね。照らしているだけでは電気代の無駄。これは誰でもわかる。照らして、目的に進む、ないし、何かをして初めて意味を成すわけです。私たちがどんなに神様、という存在を知っていても、この方の示される信号、御言葉に信頼し従わなければ迷いでてしまうでしょう。自分の好き勝手な道に行くのはある意味自由。でも、そこに何が待っているだろうか。

 

エズラは更に続けます。「私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。私は、いつもいのちがけでいなければなりません」と。誰でも悩む。でも、それでも神様のみ言葉に信頼し、これが自分を生かしてくださる、明るくし、神様との豊かな関係の中で導かれていく、いのちが溢れていく。

 

「わたしはいつもいのちがけでいなければなりません」。これをあなたはどう受け取るだろう。苦難の時はたしかに誰しもある、だからこそ、何がなんでもこのイエス様にしがみつく、いのちがけでしがみつく必要を覚えます。神様は御手を伸ばし導こうとされても、それを振りほどく、光、その灯火を自分の手で消してしまってはなんにもならないのではないでしょうか。祈っても無駄、礼拝しても無駄、聖書を読んでも無駄?それは自分が無駄にしていることであって、神様はあなたにいつも語りかけ、導かれるのです。あなたはこの関係にどれだけ命をかけていますか?

 

エズラはこの14文字目を「しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも」としめます。私たちはただ字面だけ暗唱するのではない、この中に広げられる地境、神様の御国に大いに期待しよう。喜ぼう。

 

なにせイエス様はあなたの暗闇、思い煩い、何より罪をも全て背負い光を灯すべく、人となって生まれてこられ同じ道を歩まれた。しかしそれだけではなく、私達の罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ身代わりに罰せられたことによって、私たちをこれらから開放してくださった。3日目によみがえられたことによって、イエス様を救い主として信じ受け入れるすベテの人の罪を赦し、神様の子とされる。そこに広がる地境、ゆずりは復活のイエス様が豊かに広げて下さる。

 

「私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも」。私たちは今日、これを告白し、光なるイエス様を見上げ、信頼し、導かれ、歩もう。そこに導かれる譲りの地はその栄光によって光り輝き、いのちあふれるものとなるから。