「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」
詩篇119篇97−104節
ミシュランなどの調査員は、当然ですが様々な料理店を訪れますし、味にも当然精通していなければ評価できません。また、ただ見かけだけ素晴らしくても味がよくなければ仕方がない。ただそれが人に大きな影響を与えるのは間違いないのですが。神様は、私たちに最高のグルメを備えてくださっている。恵みを、みことばをたべさせ、そうして喜びにあふれさせて下さる。神様ご自身が食卓を開き、招かれる。私たちは好み言葉に生かされ、導かれ歩もう。神様はあなたをいつも愛し導かれるから。どんなときであっても、どんな状況であっても。
さて、↑はいわゆるいろは歌のヘブル語版13段。↑の詩の作者、エズラは紀元前、バビロン捕囚期〜バビロン捕囚開放後まで生きていた歴史家、それと同時に神様の愛を人々に伝える人でした。捕囚によって希望を失った人たちに。戻ってきたは良いけど、廃墟とかしていた街を見て俄然としている人達に。希望的観測ではなく、御言葉には命があること、それをいろは歌形式で分かりやすく伝えるのでした。
神様の言葉は、宗教書とかとは違う。聖書をただの書物と思わないでください。これはあなたへの神様からのラブレター、恋文なのです。愛は、危機にひんした相手に同行動するか、それによって見えますよね。神様は、私たちが神様から離れ、疲れ果て、死にゆく事が我慢ならず、私達に御手を伸ばし、またイエス様を人として生まれさせ、その愛を存分に現す方。言いっ放しではなく、言ったことを行動に移される方なのです。私たちはこの方の語る一つひとつの言葉に耳を傾け、従うものでありたいものです。グルメのように、私たちは好き嫌いで選り分けるのではなく、神様がくださっている恵みを信じ。
話は横道に離れましたが、今日は13文字目のמ(メム)になります。神様の御言葉の確証、素晴らしさ、ただ語るだけではなく私たちを養われる、というところでしょうか。文字面だけでは私たちはそれが本当に正しいかどうかなどわからない。しかし、神様は何度も書きますが、言いっぱなしにはせず、言ったことを虚しく帰らせることはされない。実行に移される神様です。私たちが、好み言葉を唯自分を拘束、縛り付けるもの、と考えるならそれは苦痛でしょう。しかし神様はあなたにいのちを得させるため、恵みの道をいつも示されるのです。
エズラはこの13文字目のמ(メム)の段を「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです」と歌い始めます。
「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」、どれだけ愛しているのでしょう。一日中自分の思いとなっているなんて。みなさんはどうでしょう?神様のみ思いを我が心として受け止めているでしょうか。ある時は従う、ある時は嫌う、好き嫌いする。問題が起こった、約束と違うじゃないか、と神様の御言葉に信頼しないか、それとも、だからこそ、神様のみ言葉に信頼するか。敵だけじゃない、私たちが出くわすのは様々。サタンも含め。道に迷い、だから諦めるのか。
違う。そもそもまず私たちが忘れてはいけないのは、「神様が」一日中、ひねもす、あなたを思い、導かれているということを。これが抜けたら、確かに苦難困難にあったときに迷う、神様神様言っていられない、と言われても仕方ないかもしれない。神様が答えてくれるかわからない、というなら。しかし、神様は、私たちを一日中導かれている。思いを馳せてくださっている。今の問題以上に、敵以上に神様は賢く、私たちを正しく導いて下さる。神様があなたのうちに働かれ、その愛を表そうとなさるのです。
あなたはこの確証、ありますか?自分で頑張って頑張って、道にさまよって、どこに行くのか更に迷い込むのではなく、むしろ、私達の足、行路、心を神様に明け渡そうではありませんか。神様があなたを導かれるのだから。神様のあなたへの愛、御思いは天地を超えて高く、私達がこれぞ答え、問うことを遥かに超えた栄光へと導かれるのです。
私たちは決して、誰よりも優れている、とか自画自賛しなさい、と言っているわけではありません。かのソロモン王も、自分が若いゆえに神様の知恵にあって国を治めさせてください、と神様に願った。私たちがなにか特別だから賢いのではない。聖書に出てくる人たちも皆そう。神様が私たちのうちに、その知恵を与え、それと向き合い信頼し従う中で、神様の栄光が、御業が、道からが表されていくのです。神様こそ最高の知者、だからこそ私たちは神様についていくべきなのではないでしょうか。
実はイエス様でさえ、です。イエス様はなにか急に新しい教えをもってこられた、と宗教学者たちは感じて迫害していましたがそうではありません。イエス様は公生涯に入るまでにも、宗教学者とのやりとりで神様の知恵が輝いていました。それ以上に公生涯に入られてからは、より一層その知恵が現わされるようになります。いつも朝早くから祈り、父なる神様のみこころを行う、その中に神様がいつもイエス様の歩みを支え導かれていた。苦しみ、サタンの誘惑にあったときも、十字架にかかる直前でさえ、神様は御使いを持ってイエス様を励まされた。
私たちはたしかに聖書を取って読んでみて、すぐに理解するというのは苦労です。しかし、私たちが神様のみ言葉に思いにふけ、祈り、黙想する中で、私たちは神様の御心を知る、励まされる。知恵、力を注がれる。イエス様は、人はパンだけで生きるのではなく、神様の口から出る一つひとつの言葉によって生きる、と教えられた。サタンを撃退された。神様の口から出る言葉には力が、いのちがあります。あなたはこれに信頼するだろうか。
エズラはこの13段目を「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます」としめました。私たちはそんな御言葉のグルメのごとく、味わいつくしているだろうか。神様はあなたに食卓を開き、招かれる。このグルメパーティに。好き嫌いのレベルではない。これは私には合わない、ではなくあなたに最善を神様はいつも備えてくださるのです。
神様は御子イエス様を十字架にかけ、私達の罪を精算され、イエス様の十字架の前に悔い改めるすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださったのです。3日目によみがえられたことによって。神様の家族、子、この食卓に招かれるのです。神様の愛、御心を、御力を味わい尽くしてほしい、と導かれるのです。どんなときであっても神様はあなたから離れない。復活のイエス様が一日中どころか夜のお割まで導かれる。私たちはこの神様に信頼し、ついていこうではありませんか。御言葉のグルメ、味わい尽くすものであろう。