「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう。私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。」
詩篇119篇41−48節
今日は中秋の名月、と呼ばれる日でしたね。月といえば、愛しています、という日本語をどう訳すか、今夜は月が綺麗ですね、と訳されたと言いますよね。そこにどんな風景をあなたは思い浮かべますか?誰かと一緒にいて、月を眺めている…そう、愛するということは対象があるのです。最近は軽視されがちですが、本来は交換不可避なはず。神様は、あなたを交換不可避な存在として愛された。何にも代えがたい存在として。あなたはこの愛にどう応えるだろうか。
ということで、↑はそのいわゆるいろは歌のヘブル語版第6段。この詩はエズラという紀元前、バビロン捕囚期(直前からか?)〜バビロン捕囚開放ごまで生きていた歴史家、神様の愛を伝える人が書き残したものです。彼はバビロン捕囚の中という苦難・悲しみの中、生きていました。神様の愛はどこにあるのか?なかなか理解が難しい状態だった。でも神様は学問ではない、神様に生かされている、神様が幸いな者に私をしてくださる、その確信に立ち、もう一度命、神様のうちに立ち返ろうと、とこの詩を書き残しました。
そもそも人は愛なくば生きられない。イエス様も、神様を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛しなさい、と3つの愛に生きる重要性を語られました。ここで忘れがちなのが自分を愛すること、神様に造られた自分自身を、わがまま、という意味ではなく、大切にする、これを忘れていませんか?何より、神様はあなたという存在を愛されている、この事を忘れてはいけない。
ということで今日は6文字目のו(ヴァヴ)。この段に込められたテーマ愛です。愛について、ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーはこう語ります。すべてのかかわりは二つの図式に要約できる。一つは「我と汝」の関係、もう一つは「我とそれ」の関係だそうです。「それ」というのは、交換可能な存在を指し、一方的、打算的な愛と言います。それに比べて、「汝」は、交換不可能な存在であり、相互的で、打算のない愛です。
まあ、そもそも交換可能な「それ」は愛しているのか、と言えるのか甚だ疑問ではありますが。気に食わなければ交換する?そんな物は愛とは言えませんよね。逆に自分の打算的な弱さに、悔い改めるところですが。でも、弱いからこそ、神様の行動的な愛によって私たちは助けられ、導かれ、養われる。決して交換することの出来ない神様の愛が注がれるのです。だからこそ、私たちは決して神様を交換要因のように見てはいけない。主役は私ではなく神様。神様を自分に役に立つかたたないか、で見るのではない。神様の愛が私たちを生かす。これ以上の方は存在しないのです。
エズラは歴史家ですし、様々な知識もあったでしょう。苦難の中で神様神様言っている場合じゃない、と考えることも出来たはず。しかし彼はこの6文字目のו(ヴァヴ)の段を「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから」と始めます。
他の私の知識、歴史、史実と比べたって、あなたに勝る方、交換することのできる方はいない。だから、神様の恵みと救いを願ったのです。神様のみことば、神様の愛そのものが彼のうちに注がれることを願ったのです。神様の愛は希望的観測なのではない、事実であり、彼自身を根底から支える「存在そのもの」なのです、神様は。
神様はイエス様が人としてお生まれになり、バプテスマを受けられた時このように仰りました。「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と。ここからイエス様の公生涯が始まる。この後すぐ、あらのでサタンの誘惑を受けますが、イエス様をいつも神様の言葉が、実行的愛が支えてくださっていた。あらので誘惑を受けていた時、十字架にかかる直前に祈りつつも、悶え苦しんでいるときでさえ、天使を遣わし、イエス様を力づけたのでした。
同じ詩篇の中にこのようなものもあります。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」と。これはエズラが歌ったものではありませんが、神様を自分の喜びとするとき、私達の心の願いを叶えてくださる。私達の道を委ね、信頼するとき、どんな困難な中にあっても「神様が」くすしい業を行ってくださる。私たちをそうして、真昼のように輝かせてくださるのです。
エズラは更に続けます。「私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです」と。私たちの周りには様々な問題、戦いがある、苦しみがある。しかし神様が正しくそれをさばく・導いて下さる。
だからあらので誘惑をイエス様がお受けになられた時、イエス様は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」とサタンに答え始めた。神様の口から出る1つ1つのことばが私たちを支え、生かされる。私達が頑張って生きるのではなく、神様が、私達を生かしてくださる、だから私達はこの世のどんなものの前にも恥じることはなく、神様が広げられた豊かな道を、いのちを歩ませていただけるのです。
エズラはこの段を「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう」としめます。愛。交換不能、いやする必要のない、これにまさることのない神様の愛が私達をよろこばせてくださる、その神様を私達は愛しますか?この中に思いを潜めるほどに求めていますか?
神様はあなたへの行動的愛、交換不能な愛を現すため、どこか遠くから見ているのではなく、御子イエス様を人として、神であられるのに生まれさせ、人の間に住まわせてくださった。しかもどんなに罵られ、なじられようと、殺されそうになろうとも、愛することをやめなかった。私がやめたらどうするんだ、と言わんばかりに。そして最後は私達の思い煩いも、悲しみも、痛みも、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。それほどに、あなたを交換不能なほど愛する存在と神様はされた。むしろ御子イエス様の命を差し出された。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
これは交換不能な最高の特権であり、神様の愛が、いのちを惜しまない復活のイエス様が世の終わりまであなたを導かれる。行動的、何にも代えがたい愛を持って。神様の恵み、いつくしみ、親切、寛容、赦し、思いやり、あわれみ、配慮、みわざ、謙遜、真実…をもってあなたを導かれる。私たちはこの神様に生かされ歩もう。私たちが交換要因と神様を見てはいけない。神様があなたのうちに何にも代えがたい愛をあなたのすべての道の中に現されるから。