「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」
詩篇119篇25−32節
今日、職場の同僚と、利用者さんが何かをするには理由がかならずあるんだよね、それを考え、行動すれば、自分たちの心が安心というか、広がって楽になりますよね、という話をしていました。小さいコップと大きいコップでは容量の違いが明らかなように、私たちが神様のみ前で容量を小さくする、神様はどっか適当に座っていて、とか必要なときだけ部屋を用意するとか、それでは恵みは溢れない。私たちは神様に、この心を広げていただこう。神様があなたのうちに溢れんばかりの恵みを注がれるから。
ということで、↑はそのいわゆるいろは歌のヘブル語版第4段。この詩はエズラという紀元前に生きていた歴史家、神様の愛を伝える人が書き残したものです。彼はバビロン捕囚の中という苦難の中、悲しみの中、生きていました。しかしそれでも神様こそ私達を幸いなものにしてくださる、その確信に立ち、捕囚から期間後、もう一度命、神様のうちに立ち返ろうと、この詩をこれまで書いていたのか、それをまとめました。困難なときでも、解放後も、神様の恵みに生きよう、と。神様が導かれるから、と。
律法、神様の教え、というと何かがんじがらめにされるイメージがありますが、そうではない。神様が律法を与えてくださったとき、モーセを通してこのように仰られました。「あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる」と。そう、私たちが幸せとなるために神様が正しいことを行ってくださる、だから私達はそれに従う。
今日は4文字目のד(ダレト)です。テーマはまあタイトルのとおりですが、「生きる・生かされる」ということです。私たちは生きたい。でも自分で心臓を動かしているわけでもなく、神様が心臓を動かす仕組み(脳も含めて)を持って造られ、私たちは生かされている。でも単純に物理的に生きる、という意味だけでは本当の意味で生きているわけではない。辛い日、それも生きている。
でも、ここで忘れてはいけない、考えなければいけないことは、私たちは神様によって生を与えられた、ということ。ということは神様が私たちを生かしてくださっているんです。冷静に人が誕生するプロセスを考えれば、人の力だけでは誕生しません。神様が、私達に命を与え、生かしてくださる。その息吹、恵みを注がれる、この神様がいることを忘れてはいけない。
私たちはパンだけによって生きるのではなく、神様の口から出る一つ一つの言葉によって生かされていくのです。親が赤ちゃんに優しく語りかけ愛情を持って育てるように、命を与えて、さああとは勝手に生きなさいというのではなく、養う、養育する、命のミルク、パン、御言葉、様々な形を持って。
エズラは4段目のד(ダレト)をこのように始めています。「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください」と。魂は神様が与えて吹き込まれたものです。「この打ち伏しています」という言葉は、すがりつく、という絶対的依存の意味を持っています。彼は何にすがりつく事を言っているのか、塵のような状況にあって、「あなたのみことば」、それすなわち神様にすがりついているのです。この方に依存しなければ生きられない、その事をバビロン捕囚の中で多く経験した。
神の国と言われたイスラエルも陥落、しかしそこには預言者や高官にイスラエルの民を神様はバビロンの中にあっても置かれた。神様は決して私達を見捨てず、生かしてくださる。ただ、それを信じないで私達が離れていってしまうだけ。私たちが結局何にすがりつくか、表面上とりあえずすがりついて、こころは別なところにあっては仕方がない。私たちは魂の底から神様にすがりつこう。神様もくすしいわざを持って答えられるから。
私たちは塵、苦境苦難の中で何にすがりつくだろうか。ルツという異邦人、神様からあまりに酷い民なので10代経っても、イスラエルに加えることは赦さない、と絶縁状を送られた民のひとりだった。しかしイスラエルから飢饉のために逃れてきたナオミという女性にすがりついた、ナオミの夫、息子たちを失おうとも神様にそれでも信頼するその姿、その彼女がすがりつく神様に、ルツもすがりつき、やがてはダビデ王、そしてイエス様の系図へと繋げられていった、神様の家族の系図に。そんな絶縁状さえ突きつけられた部族から。普通なら抹消したい歴史、しかし、神様のみ前にひれ伏す、すがりつく人を神様は決して見捨てません。どんな状況の中にあっても神様は養い守り、導き、またその地境を広げてくださるのです。
更にエズラはうたいます。「私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください」と。神様は答えてくださる方。でもその答えが私を生かしてくださることを理解できるように助けてください、悟らせてください、教えて下さい、そこに神様のみこころ、くすしいわざがあると確信を持ち、世がどんな状態にあっても神様にすがりつけるよう祈ったのです。バビロン捕囚から解放された今、なおさら神様が開き広げられたこの道を歩もう、と歌うのです。
私たちはこのような状況の時、諦めるか、涙を流し神様にすがりつき祈るか、エズラが「私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。私は、あなたのさとしを堅く守ります」と祈るように。神様は私たちが驚くべき形を取って薬師磐座を、御心を持って養われる、導かれる。愛ゆえに。
神様は、私たちが暗く閉ざされた中にあってこれに光を照らし、広げるべく、閉ざされた壁を開くため、御子イエス様を人となって生まれさせ、人の間に生きさせてくださった。神様の御心がイエス様を通して成し遂げられるため。そしてイエス様もどんなに罵られ、迫害されようとも心を閉ざさず、最後まで愛を示され、最後は私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、閉ざされた墓が開かれるように、イエス様を救い主として受け入れ信じるすべての人の罪を許し、神様のことしてくださる。その道は人の目から観て狭く見えても、神様が広げてくださるのです。
このイエス様の命がけの愛にあって、私たちの器の容量は広げられた。ダダ漏れになってしまうのではない、溢れんばかりに注がれる。私たちは復活のイエス様と同じ恵みに預からせていただける、この新しくされた、「神様が」広げられた命の道を、世の終わりまで、イエス様にすがりつき、歩み続けようではありませんか。イエス様もあなたを愛し導かれるから。