ー未来のためにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

Ⅰテモテへの手紙6章17−19節

 

未来への投資という言葉がある。でも、その前に今、何をするか。それが未来を考える前にすること。最近ですとSDGsなんて言葉が出てきていますが。別に遠い未来の話じゃなくても良い、明日私たちには何があるかわからない。だからこそ、今できること、今導かれていることがあるなら惜しまず行おう。あなたの近い未来も遠い未来も、神様が導かれる。あなたはこれに信頼しますか?

 

さて、↑の手紙は若い牧師テモテへ向けてベテランの伝道師パウロという人が紀元Ⅰ世紀に書いた手紙の一部。個人宛だからといって私たちに関係がないわけではない。私たちは神様に目的を持って今置かれている場所に遣わされているのですから。牧師が、宣教師が、伝道師が偉いのではない。何人救った、何人規模の教会になった、それを誇るのではなく、私たちはそのように導かれた神様を褒め称えるべきではないでしょうか。

 

そういう意味で、私たちは高ぶるのではなく、パウロの言うように、別にこの世で富んでいるというのは金持ちだけを指すわけではないのですが、もし、あなたが何かに満ちているなら、それは神様がすべて備え、与えてくださっているものだということを忘れてはいけない。そもそも富や知恵、希望を与えてくださるのは神様です。私達を豊かにしてくださるのは神様だということを忘れてはいけません。あなたを楽しませるため、神様にしかできない喜びで満たすため、日々日々あなたにその眼差しを向け、あなたに御手を差し伸べられている。

 

私たちは神様がくださっている、私たちの環境を当たり前のように感じやすいですが、そもそもこの地を造られたのは神様であり、そこに神様が人を置かれた。ある意味では、私たちは住まわせていただいている。神様は天地創造の際に全ての良きものを備えてくださっていた。しかし、人は神様のようになりたい、もっともっと、と欲望に目がくらみ、いくらサタンに騙されたといえども、エヴァ、そしてアダムは食べてはいけないと言われていたきのみから取って食べてしまった。

 

でも神様は、パウロの言葉を借りるなら「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与え」てくださる方なのです。神様は、私たちをすべてのことを働かせて益としてくださる、今苦難の中にあってもあなたのうちに働かせて神様の恵みが溢れる、惜しむことなく。喜んで与えてくださるのです。私たちは神様はどうせ聞いてくれない、何もしてくれないと、諦めている、ないし侮ってはいないだろうか。

 

私たちは、この人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えてくださる神様にあなたの思いを、その手の技を、一切を委ねよう。その時神様は惜しむことなくあなたのうちに働かれ、御心をなしてくださる。私たちがたとえ諦めようとも、明日という未来、明後日という未来、数時間後の未来、遠い未来、いずれも神様が建て上げてくださるのです。だからこそ、私たちはまず、この神様との時間を惜しむことなく喜んで自分のうちから捧げ、委ね、祈ろう。御言葉に聞こう。神様はそのあなたに答えてくださる方だから。

 

神様は、あなたのうちにまことの命という名の未来を築き上げるため、私たちが失ってしまった最高の姿を取り戻すため、私たちの思い煩いも、痛みも、罪も、一切引き受けられ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私達がこのイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るとき、私たちの罪は赦され、神様の子とされる。同じ復活の恵みに預かり、新しくされるのです。

 

私たちは一瞬一瞬のうちに神様のみこころが今この瞬間から、現されることを切に祈り求めようではありませんか。未来への投資?私たちが投資するのではない、イエス様の命にあってあなたは新しく、その未来はその命を持って築き上げられていくのです。私たちが私たちが、と自分で勿論未来を切り開きたい気持ちはわかる。でも今一度謙遜になり、神様の惜しまずたのしませ、与えてくださる未来を、明日を、この瞬間を楽しみ、喜び、待ち望もうではありませんか。