「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」
詩篇119篇1−8節
いろは歌とか、アルファベット歌など世間にはある。その文字に何かを当てはめて覚えていく。ものだったり、正月にやるかるたなどもそうか。覚えやすいですよね。でも、大事なのはその中身。物はいつか覚える。私たちが本当に生きたものとなる、幸いなものとなるために、私たちはいろは歌とかそれ以上に神様に親しもう。神様はあなたを幸いに導きたい、と今日も語りかけてくださるから。
ということで、↑はそのいわゆるいろは歌のヘブル語版。エズラという紀元前に生きていた歴史家であり、神様の愛を伝える人が書き残したもの。彼は特に大きな苦難の中でこの詩を書き残しました。彼の生きていた時代は、彼自身バビロンによって捕囚されていた。何度も悲しみを覚えていた。もうどうせ神様を今更信じて何になる?と思わず、彼は幸いを知ったのです。それを書き残した。詩篇にはいくつかいろは歌のヘブル語版が残されているので、また別な機会に。
で、この詩篇119篇というのは本当に長い。1つの文字に対して8節。22文字ヘブル語にはあるので、196節もあるので、22回に分けてゆっくりじっくり見ていきたいと思います。削れるところがないからこそ、この長い詩を、後に聖書をひとまとめにする際にも残したのではないか。聖書は全て神様の霊感(導かれて)残されたもの。神様にとって削っても良いものなど何一つない。あなたにとって、神様に欠けはない、これだけはぜひ忘れないでくださいね。
ということで、まず最初の1−8節のテーマは「み教え(トーラー)」。最初のアルファベットと言うかへぶる文字はא(アレフ:困ったことに某カルト集団がこの名前を使っていることに悲しみを覚えるところですが)幸いな人にとって必要なのは神様の言葉、これはもう先の詩にも直結する。イエス様も仰りましたが、たしかに私たちはパンだけで生きるのではなく、神様の口1つ1つから出る言葉によって生かされる。いや、神様は私たちに本当の意味で神様の最初にイメージしたあなたの最高の姿に回復してほしい、生きてほしいのです。
エズラの生きていた時代は先程も申しましたが、バビロン捕囚の中です。まあ、歴史を見て分かる通り後に解放され、イスラエルでもう一度回復すべく神様の教えを教えた。世渡り上手に周りとどう生きるか、ではなく神様中心。エズラの時代、捕囚解放後、神殿回復や城壁債権を邪魔する既得権益を求めてきた人たちがいましたが、世渡り上手に彼らとやっていくには時には曲げたほうが良いのでは?と思う人もいるかも知れない。まあ、最近の某総裁戦では誰かの顔を建てるため、生き残るため、自分の言っていたことを曲げてしまう人もいますが。じゃあ自分の信念を曲げてなることにどこに喜びがあるのでしょう。
と、話を先に進めてエズラは幸いな人についてまず「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」と歌います。全き道を行く、主(神様)のみおしえによって歩む人々。これ、いきなり核を付きますね。人を集めるために人生論ばかり、神様の言っていることよりも世渡り上手にいかに生きるべきか、を中心に教える、そうすれば幸せになれるんだ、と教えてしまう傾向が最近教会にも見られますが、なぜ?それは神様の教えに対して信頼していない、というか、侮っている、そんなものが何の役に立つんだ?と。
神様は物か?自分の役に立たせるために存在させる召使いか?違うでしょう。神様が、全き道となられる。神様が導かれる道、それこそが完全な道。神様が守り導いてくださるからこそ、その道は完全。私たちが神様を利用して幸になる(その思考自体とんでもない話ですが)のではない、神様が、私たちを幸いにしようと導いてくださるのです。
まあこの道を歩んだ「全き人」といえばノアの洪水の中で唯一認められたノア。彼の一家はどんなに世が腐敗しようとも神様を信頼し続けた。妥協するのではなく。神様がノア以外に救いたいと思える人がいなかった、というほどにひどい中にあっても彼は神様に従うことを曲げなかった。なんで?神様は完全、たとえどんな中、ひどい中にあっても、暗闇の中にあっても守ってくださる、と全幅の信頼をおいていた。神様が導かれる道、そこを神様と、全幅の信頼を置き歩む。私が神様を連れ回すのではない、神様が私たちを命の道、幸いの道へと導かれるのです。
エズラは続けます。「幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた」と。守る、それは当然守るべきもの、一方で心を尽くして主を訪ね求めるのは、私たち自身の意志で求めること。でもそんな事ができるならとっくに出来ている、こんなイスラエルが捕囚にあうなんてありえない。だからこそ、私たちはこの神様が全き道を導いてくださることに全幅の信頼を置く、彌置けるように助けてくださいと祈るべきではないだろうか。
神様のさとし、難しいことではない、一言で言うなら神様を愛し神様とともに歩むこと。神様を求める、それは神様が赦してくださった。いや、私たちはそのような存在として造られ、また導かれるのです。私たちが完全だから神様があれしてくれる、これしてくれるのではなく、神様が私たちを日々そのイメージに近づけてくださるのです。
エズラがさらに「あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します」と歌うように、神様は私たちを恥あるものとするのではなく、命あるものとしたいのです。御言葉は宗教とかそういうものとはレベルが違う。宗教本でもなんでもない。神様ご自身が語られる言葉、それは虚しく帰ってくるのではなく、私たちのうちにとどまり、私たちを感謝の心で満たされる、心燃やしてくださるのです。
エズラは「私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください」と最初のいろは歌の1文字目をしめていますが、私たちが神様を見捨てる(という表現は失礼かもしれませんが)ことなく、むしろ神様に導いてください、あなたのおきて、私達を生かす御言葉を持って、守り導いてください、と祈ろうではありませんか。神様はあなたのうちに感謝の心で満たす御心を約束のみ言葉通り成し遂げてくださる。
なにせ神様は、彼らをバビロン捕囚から解放させたように、私たちを見捨てるのではなく、神のみ子たるイエス様を私たちに与えてくださり、私達のうちに住まわれた。人々はどれだけ心燃えたことだろう。しかし彼らは自分たちの求める救い主像と違うと見るや、見捨て裏切り、罵り、最後は十字架にかけて死なせた。しかしイエス様も十字架上で「話が神、我が神、どうしてわたしをみすてたのですか」と訴えるほどに私たちの苦しみを背負われた。私たちを見捨てないために。でもイエス様は3日目によみがえられたことによって、このイエス様の救いを受け入れる時、私たちは罪赦され神様の子としてくださる。新しくして下さる。
イエス様の命にかけて保証される幸いな道。どうして私たちはこれを侮ることができるだろう。私たちのためにこれだけの愛を実行された神様が導かれるこの命の道を今日も主に導かれ歩ませていただこうではありませんか。神様はあなたを幸いにすべく命に導くみ教え、御心を持って導かれるから。
