ー鶏と卵、どっちが先?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

創世記1章1−5節

 

鶏と卵はどっちが先に誕生したのか、なんて議論がよくありますよね。卵は鶏がなければあり得ない。でも、鶏は卵から始まる。じゃあどっちよ、という話になるわけですが、もう一歩踏み込むと、じゃあその鶏を造られたのは誰?という話なんです。まあ人間も、最初は成人した状態で造られた(アダムとエヴァ)のですが、そこから子供が誕生していくわけです。無から有を作り出せないように、私たちは神様を作り出すことは出来ない。私たちを造られた神様にあって私たちは今日生かされていることを覚え、感謝し、生きよう。

 

さて、↑はこの世界ができる前の話。はじめに神様は天と地を創造された。それまでは何もなく、茫漠としていて、闇が大水の上にあり、神様の霊(聖霊様)が、水の上を動いていた(管理されていた)というわけです。じゃあその前は?と思うわけですが、神様に仕える天使などを作られ、神様の世界があったのかな、と思う。

 

ある宇宙飛行士が、国からミッションが与えられ、宇宙に言ったらそこに神様がいるか、天国があるか見てきてくれ、と言われたそうですが、目に見える形、天国というと、どこか高いところにある、というイメージがどうしてもついてまわるのですが、宇宙の果てまで行ったら天国がある、とかそういう物理的なものとはまた違うようですね。

 

ただ、私たちの想像し得ない素晴らしいところなのかな、と私は思う。だって、神の御子イエス様による罪の許しを信じ受け入れた人が死んでのち招かれるところ、そこがこの世と変わりない、ちょっとすごい程度では悲しいじゃないですか。というよりも、この世の測りでは測りきれないほどに素晴らしい場所、と思う。それは聖書の一番最後に記されている預言、黙示録などを見ると具体的にわかると思うので、時間があったり興味がある方は聖書を読んでみると良いかもしれません。

 

まあそういうちょっと小難しい話はここでは抜きにして、今、私たちが生きている世界、これをまあ宇宙とか全部含めて創造されたわけです。なぜ神様はそんな世界を造られたのかな、と不思議に思うところではありますが、神様は別にあなたとわたしの住む世界は違うんだ、と隔てるようなことをせず、むしろ神様は私たちのうちに恵みを注ぎ、またこの恵みのうち、神様の光のうち私たちが生かされるそのようなところを作り出したかったのかな、と思う。でも、これはきっと天国に行って神様に直接聞いてみたほうが正確かな。

 

なぜ神様は私たち人間をわざわざ造られたのかな、いや、私たち人間って何者なんだろう。まあ自分の存在価値、理由を色々考えているときに、↑の箇所をもう一度思い出したのですが、聖書の一番最初の言葉。これこそ、私たちのすべての始まりの言葉。神様が、この天地を造られた、それ以上でもそれ以下でもない。神様「が」神様しか出来ないことをされた。7日間(正確には6日目に創造の手をおえられ7日目に休まれたのですが)の内に全ての業を完成された。

 

ある学校で創造についてディスカッションしていたのですが、ある人はこの1日は何億年という単位なんだ、ないし進化を用いた、なんてクリスチャンだっている。でも、冷静に考えて、4日目に太陽や月、星ができる、でも植物は3日目。そんな何億年も待ってたら植物はなくなります、と高校生が普通に答えていた。そう、神様の作られる、神様のなさることは完璧なのです。

 

この世の中を見ていると、なんでこんなにつらいことがあるんだろう?理解できない、不条理なことが多いではないか、と多くの人が思う。でも、私たちは神様に責任を転嫁しようとしていて、自分たちのうちにある罪を見逃していないだろうか。そもそも↑で神様は、人が6日目に誕生するまでのこの世界を神様(聖霊様)が管理されていた、というんです。その時だけ?造って後は放置?そんな神様じゃないですよ。神様は今も生きて働かれ、私たちを良い意味で管理してくださっているんです。見捨てているわけではないのです。

 

イエス様も、天に昇られた後、新しい助け主なる聖霊様を送られる、と約束されていた。十字架にかかる前。十字架にかかって、死んで、よみがえられて、天に登って、後は好きにしなさい、なんてことはされず、無責任にせず、むしろ、その後も私たちを導くために新しい助け主なる聖霊様を私たちにお下しになり、導こうとされている。神様の愛(管理というと言葉が強いかもしれませんが)、それは私たちを孤児にはせず、見捨てられない。イエス様は、私たちの住まいを作りに天に昇られた(新天新地、ないし死後いるべき場所)、でも、神様は私たちを見放したわけではなく、むしろ私たちを住まいとされた、聖霊様の住む宮とされた。

 

昨日も分かち合ったとおり、私たちが、あなたがイエス様を迎え入れる時、そこから永遠の命は始まっているのです。私たちが当たり前と思っているだけで、神様は導かれている、養われている、それを勝手に私たちがやったんだ、とか思ってはいけない、むしろ神様が私たちを助け導き様々な助け人、御力、知恵を注がれているのです。

 

神様の言葉には力があります。光よあれ、といえば、それができるのです。混沌とした中に光を灯されるのです。無から有を。誰が一体そんな事を人間ができるでしょうか。神様は私達を作ってくださり、導いてくださる。本当に感謝なこと。でも、私たちは神様を作り出すことは出来ない。自分の思うように操ろうなんて出来ない。しようとしてもできない。それは神様ではなく、あなたの操り人形です。私たちの思いを投映した像をどんなに造っても、それはあなたには命あることをしない。できない。それはあなたが自分の思いを込めて造った、自分の願望を叶えるために造った、それを神としただけですから。

 

しかし、主体者は神様なのです。それが納得できない人はいるかも知れない。しかし神様はいつもベストをされる。善にして善を行われる方なのです。1日に十分にふさわしいことを造り上げられたように、1日1日神様のみわざは行われている。後でやり直さなければいけないなんて、事はなく、完璧な6日間の創造によってすべて完成された。神様の一日一日、その中にあって人が誕生したように、私たちは神様の、神様にしか出来ない完璧な技を持って、その積み重ねにあって、日々生かされているのです。どうして?あなたを愛しているからです。

 

神様は、私たちの暗闇に光を灯すべく、御子イエス様を天から遣わされた、人として生まれてきてまで。罪によって隔たれてしまった関係に架け橋をかけるべく。罪を犯さない点を覗いては全く同じ人間となられて、私たちと同じ重荷を追われ、歩まれた。その中にあって私たちに道を示された。光を灯された。その如何ともし難い淵を埋めるべく、私たちの主に、思わ伊豆らい、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、この神様との交わり、生きた宮、神様の家族に招かれるのです。この端を渡って、たった2枚の板、十字架によって。私たちが罪を悔い改め立ち返るなら。渡って、神様とともに生きることを願うなら。

 

私たちは神様を作れないけど、神様は私たちのうちに新しい命に作り変えることができる。罪を砕き、死を砕き、サタンを砕き、世の患いに光を灯し。この命のうちに今日、神様は私たちを招いてくださっている。あなたはこの招きにどう答えるだろうか。神様が積み重ね導かれる、神様にしか出来ない御業に私たちは信頼し、歩もうではありませんか。御子イエス様を十字架にかけ私たちに命を与えてくださるほどに愛される神様に。