「主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。」
ヨブ記40章1−14節
よく人間関係の中で、言われているうちが花、なんて言葉が出てくる。言われなくなったら終わりだよ?と。ただ、これを間違って利用し、唯自分の思うままにするために言う人もいる。一方で、本当に愛するがゆえに、語り続ける人もいる。神様は人ではないにしても、私たちが命のうちに招くためならその御手のわざを止められない。その口から出る一つひとつの言葉によって花を咲かせて下さる。言われているうちが花、なのではなくこの咲かせて下さる神様に私たちは大いに期待しよう。黙って無反応なのではなく命の内を歩もう。
さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前の時代に生きていたヨブという人が苦難にあった時に神様が答えている場面。ヨブは神様を心から愛し、絶えず祈り、いつも感謝していた。財産が奪われ、子が失われた時でさえ神様を褒め称えた。妻に呆れられようとも。ヨブは神様がいる、「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」知っている、この方に全てを委ねようと心を注ぎだします。神様も彼ほど正しい人はいない、と仰られるほど。
サタンはしかしそんなわけない、何か苦難困難でもあれば神様を人間は、ヨブは呪うに違いないと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味はない、と神様にある希望から引き離そうとしてくるのです。
そんな悩んでいるヨブの元に3人の友人がヨブを慰めに来ますが、ヨブを慰め励まし共に祈るどころか、因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめます。ヨブだってそんな事はわかっている、でもこの神様はやがて栄えに満ちた喜びの日へと導かれると希望を持っていましたが、彼らは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、この神様と話したい、と訴えます。
その彼の前に、エリフという人が神様について、彼の心を整えるべく御霊に導かれ語ります。そしてエリフの話が終わった後、神様が登場します。神様はここまで、この天地を造られた神様が治め、地を作られた神様が用意された恵みの場所に私たちを導き治める、神様の御心の中に招かれている事を、どんなに驚異的な状況にあろうと、神様が希望の光を持って導かれる、生かし続けて下さる神様に委ねることを観ました。↑はその神様のヨブへの語りかけの続き。
「主はさらに、ヨブに答えて仰せられ」ます。私はヨブ記を今まで何度も呼んできましたが、ふと今回目を開かせていただいたのは、神様は「答えて仰せられ」る方であるということ。「苦難のときに神様はなぜなにもしないのか」など「私たちの疑問」に神様は答えていない、と考える人もいますが、神様は私たちが思う答えをしてくれないのではなく、神様は私たちをベストの方向に導くために、私達の状況や思いも全部聞いた上で答えてくださる。だから私たちは聞かなければいけない。
私たちはとかく神様が「非難する者が全能者と争おうと」する者、「神を責める者」になりやすい。自分が納得行かないから、神様を避難し、さばき、攻め、洗おうと裁きの座につこうとする。しかし神様は、ヨブ自信が「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません」というように、争いたいわけではない。無理やり従わせようとするわけではない。そうなら神様はここで終わらせるはず。
しかし、神様はなおも語り続ける。それは、猫が自分の子猫の首根っこを掴み、無理やり従わせるような関係ではなく、つまらない関係ではなく、恐怖で支配したいわけでもなく、愛ゆえに、命の内を歩んでほしいのです、ヨブに、あなたに。
神様はなおあらしの中からヨブに答えて仰せられます。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか」と。
「腰に帯を締める」という意味は「神様の恵みによって『力を帯びる』(強くされること)『喜びを着る』『衣をまとう』という意味で、転じて、神の問いかけに対して自分自身を整えるように」という意味であることを前章で見ました。神様はただ黙って従っていればいい、というのではなく、神様は神様にある喜びを、力を、その恵みによって着せて下さる。だからこそ私たちはこれを喜び待ち望む、ただ神様が言うんだから仕方ない、という態度ではなく、それで待ち望むのではなく、喜びを持って神様の御心を待ち望もう。神様が着せて下さる喜びに。
そこに私たちが無効、そんな者は役に立たない、などと言うに値しない喜びがあなたのうちに「神様の恵み」ゆえに広がるのです。神様のみ力があなたを導かれるのです。どんな苦難の中にあっても、その見てにあって導かれる。私たちの知らない、私達の思いも及びつかない恵み、命のうちに。
私たちは神様のような御腕などない。神様はヨブに「さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ」と仰りますが、そんな物は持っていない。しかし、神様がその恵み故に、その御力を、喜びを着させて下さる、溢れさせてくださるのです。私たちが無理をする必要はなく、むしろ神様に委ねること、謙ることが必要なのではないでしょうか。
神様は、私たちが神様から離れ自分の衣、自分の力で生きるのではなく、神様の下さる最高の恵みに生きることを願われ招かれている。しかし、私達は神様から離れて本来あるべき命を失ってしまった。しかし、御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ十字架にかけ、死なせてくださった、そして3日めによみがえらせてくださったことによって、罪の衣を脱がせ、復活のイエス様があなたのうちに住まわれ、あなたに神様の子としての特権、衣を着せくださるのです。
ここまで愛される神様を今日、待ち望もう。神様は答えて下さる神様であること、あなたが思う以上に、喜びにあふれる、喜びの衣を着せて下さる。導かれる。ただ神様がいうんだからしょうがない、と高ぶるのではなく、神様の前に謙り、神様のみこころがなることを待ち望もう。神様も黙って待ってろ、というわけではなく、試練の中にあっても、どんなときであっても、世の終わりまであなたを導かれる。御子イエス様の命を差し出す保度に愛される方が。私たちはこの神様が咲かせて下さる花、実を大いに期待しよう。
