「だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない。神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。それが高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるか。そのいかめしいいななきは恐ろしい。馬は谷で前掻きをし、力を喜び、武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。それはいきりたって、地を駆け回り、角笛の音を聞いても信じない。角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高い所に作るのは。それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。」
ヨブ記39章16−30節
生まれてくる赤ちゃんは何も知らない。親の愛情を受け、また周りの環境の影響を受けながら育っていく。でも、本質的な人のうちにある性質は、魂は、人がどうのこうのできるものではない。DNAがどうだって?じゃあその元を授けられたのは?それにそれだけでは生きていけない。私たちは神様に養われてこそ、本当の意味で生きたものとなる。私たちは真の親・父なる神様に生かされ、歩もう。
さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前の時代に生きていたヨブという人が苦難にあった時に神様が答えている場面。ヨブは神様を心から愛し、絶えず祈り、いつも感謝していた。財産が奪われ、子が失われた時さえ神様を褒め称えた。彼は神様がいる、「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」知っている、この方に全てを委ねようと決め手心を注ぎだします。実際神様も彼ほど正しい人はいない、と仰られるほど。
ところがサタンはこれが気に食わず、何か苦難困難でもあれば神様を人間は、ヨブは呪うに違いないと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味はない、と神様にある希望から引き離そうとしてきます。
神様は聖書の中で「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束された。親のように神様は、その御翼に乗せ、私たちを導き、離れず、共に進まれる。見捨てない。だから私たちも。神様から離れてはいけない。サタンが何をしようが、世が何をあなたに思い煩わせてこようが、神様の前に立ちおおせることなどできないから。
そんな悩んでいるヨブの元に3人の友人がヨブを慰めに来ますが、ヨブを慰め励まし祈り合うどころか、因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめます。ヨブだってそんな事はわかっている、でもこの神様はやがて栄えに満ちた喜びの日へと導かれると希望を持っている。それでも彼らは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、この神様と話したい、と訴えます。
その彼の前に、エリフという人が神様について、彼の心を整えるべく御霊に導かれ語ります。そしてエリフの話が終わった後、神様が登場します。神様はここまで、この天地を造られた神様が治め、地を作られた神様が用意された恵みの場所に私たちを導き治める、神様の御心の中に招かれている事を、どんなに驚異的な状況にあろうと、神様が希望の光を持って導かれることを見てきました。↑はその神様のヨブへの語りかけの続き。
この中の「神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ」という部分、これは今日の箇所にも共通してとても大事なのです。親の心子知らず、なんて言葉がありますが、私たちは神様の何を分かっているのか、造り主なる神様の。神様から離れ、忘れた知恵、悟りを、神様はじゃあ放りっぱなしにするだろうか。あなたを放り出したままにされるだろうか。家でした放蕩息子の話が聖書にありますが、お父さん=神様は、分け与えた財産を湯水のように使い果たした息子を、それでもまだ遠くにいるときから見つけ、抱きしめ、受け入れたではありませんか。
神様は、なお続けてヨブの目に入る動物たちから語ります。イエス様もそうですが、私たちに分かる形で、彼らの、私たちの周りに例えながらわかりやすく説明して下さる。神様は私たちの知らないことを難しく語って、知恵をひけらかせるわけではない。その知恵を持って私達に命を得てほしいのです。神様は私たちにいつも、命の道を示されている。しかしそれは今の私には関係ない、と拒否しているだけ。私たちはしっかりと神様を見つめよう。その愛を見よう。
ということで、↑。神様はさらに「それ(だちょう)が高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるか。そのいかめしいいななきは恐ろしい。馬は谷で前掻きをし、力を喜び、武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。それはいきりたって、地を駆け回り、角笛の音を聞いても信じない。角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高い所に作るのは」と語ります。
これらは私がやったんだぞ、すごいだろう、とヨブに神様は訴えているのではない。お前はだから何もできない、と言いたいわけではない。私たちはどうにもならないことは世の中、山ほどある。神様が挙げた動物たちの生態は、私たちが彼らに教えるわけではない。神様が生きるように、それにふさわしい姿に想像された。私達に対してもそう。人それぞれ違いはあれど、神様が、私たち一人ひとりに必要な事をいつも備え、生かし「続けて」くださっているのです。ただ造って終わり、ではない。
神様は苦難困難の中にあってもあなたのうちに豊かに働かれる。私たちの知恵や悟り、力、命令によってどうにかするのではない、神様があなたのうちに御心を働かせてくださる。私たちのほうが知恵がある、神様あれやってこれやって、と命令するのではない、私達はこの神様の前にへりくだる、その時弱さのうちに神様が完全に働いてくださるのです。
私たちは神様から与えられた素晴らしいイメージ、姿を罪によって失っていく。世に傷つけられ、神様に帰らず。しかし、神様は私たちをもう一度命あるものとするため、私たちの罪を身代わりにイエス様に背負わせ十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として向かえてくださる、その特権をいただくのです。そうして神様が本当の意味で私たちの父・神様となって下さる。
この愛を私たちは今日、どれだけ受け止めているだろうか。神様は、その豊かな知恵、力、悟り、何より愛ゆえの力によってあなたを今日、導こうとされる、命の道に。御子イエス様の命にかけて。あなたは今日、この愛の前にどうするだろうか。私たちは復活のイエス様の愛の乳をいただきながら、この命の内、恵みのうちにとどまらせていただき、世の終わりまで、離れることなく歩もう。イエス様もあなたから離れない、だから私たちも離れることがないよう、いつも謙り、イエス様を見上げ、歩もう。
