ー驚異の中にある希望ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。あなたはこれらがはらんでいる月を数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。その子らは強くなり、野原で大きくなると、出て行って、もとの所には帰らない。だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野生のろばの綱をほどいたのか。わたしは荒れた地をそれの家とし、不毛の地をその住みかとした。それは町の騒ぎをあざ笑い、追い立てる者の叫び声を聞かない。山岳地帯はその牧場、それは青い物を何でも捜す。野牛は喜んであなたに仕え、あなたの飼葉おけのそばで夜を過ごすだろうか。あなたはあぜみぞで野牛に手綱をかけることができるか。それが、あなたに従って谷間を耕すだろうか。その力が強いからといって、あなたはそれに拠り頼むだろうか。また、あなたの働きをこれに任せるだろうか。あなたはそれがあなたの穀物を持ち帰り、あなたの打ち場で、これを集めるとでも信じているのか。だちょうの翼は誇らしげにはばたく。しかし、それらはこうのとりの羽と羽毛であろうか。だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で暖めさせ、足がそれをつぶすことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない。神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。それが高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。」

ヨブ記39章1−18節

 

私たちはここ数年、気象を含め、例のウィルスなど、様々な脅威の中にさらされている。なぜ脅威と感じるのか?私たちにはわからないことが多い、わからないからこそ恐れるのです。しかしそれらすべてを掌握し、またすべ収める、それらより遥かに勝っるあなたを神様は愛されている。私たちはこの希望の光を見続け、この照らされる道をイエス様と一緒に歩み続けようではありませんか。

 

さて、↑はイスラエル民族の発祥の少し前の時代に生きていたヨブ、その彼が苦難にあった時に神様が答えている場面。ヨブは神様を心から愛し、絶えず祈り、いつも感謝していた。財産が奪われ、子が失われた時にも驚くべきことに神様を褒め称えた。彼は神様がいる、「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」知っている、このの方に全てを委ねた。神様も彼ほど正しい人はいない、と称されるほど。

 

ところがサタンは人はそんなに聖いはずがない、何か苦難困難でもあれば神様をヨブは呪うに違いないと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味はない、と神様にある希望から引き離そうとする神様は私たちに与えられる方、サタンは与えているようで奪う存在である事を私たちは忘れてはいけない。そのために私たちはいつも神様を見上げ続ける必要があるのではないか。神様は私たちを、あなたを贖う、救う、与え、整え、導かれる方だ、と。

 

 そんな悩んでいる彼のもとに3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ヨブを慰め祈り励まし合うどころか、因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめます。ヨブだってそんな事はわかっている、でもこの神様はやがて栄えに満ちた喜びの日へと導かれると希望を持ちます。それでも彼らは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、この神様と話したい、と訴えます。

 

その彼の前に、エリフという人が神様について、彼の心を整えるべく御霊に導かれ語ります。そしてエリフの話が終わった後、神様が登場します。神様はここまで、この天地を造られた神様が治め、地を作られた神様が用意された恵みの場所に私たちを導き治める、神様の御心の中に招かれている事を見ました。↑はその神様のヨブへの語りかけの続き。

 

それにしても前の章も含め、38−39章には様々な動物について神様は語ります。獅子、烏、野山羊、雌鹿、野ロバ、野牛、ダチョウ、馬、鷹、鷲…私たちには親しみずらく、時には私たち人間に危害をくわえ、脅威となる動物たちです。正直な話、これらの動物の生態は、私たちの目から見るならばとても理解不能。

 

そんな動物たちにさえ神様は目を向け住まいを備え、養い、生き方を示している。それならどうして神様はあなたを養わない、目を向けないはずがあるだろうか。神様は私たちの住まいを備えて下さる。たとえ荒れ地のような中に私たちがあるときも、暗い夜、飼い葉桶そばにいるしかないような状況にあろうと神様はその中にいるあなたに目を向けておられる。あなたという人を耕し、生きたものとしてくださるのです。

 

私たちはどうしても近視眼的になる。問題が脅威であればあるほど、それに「私たちが」どう対処するか、解決するか、を考える。しかし神様は、「その力が強いからといって、あなたはそれに拠り頼むだろうか」と私たちに訴える。神様は私たちの、この驚異の中にあってもその御手を伸ばされている。その中で、私たちに頼って良いんだよ、と訴えているのです。ヨブに関わらず、私たちは多くの脅威、苦しみに、様々な場面で直面する。しかし、それらの巨大な問題、山を動かすのは、私たちの力ではなく、これらすべ治め、なおこれらに勝ってあなたを愛される神様が動かされるのです。

 

自分一人で動かしても、それは自分の力の範囲内でしかない。しかし、あなたは一人ではない。神様はあなたのためにすべての必要を備えてくださるのです。どんな苦難困難の中にあっても、イエス様も「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と仰られたように、神様が明日のことを備え、またその日その日、あなたに必要なすべてを、私たちが思う以上に与えてくださるのです。神様は、「あなたの働きをこれに任せるだろうか」と私たちが、この腕に握りしめている苦しみ、悩みを手放し委ねることを訴えている。神様が、これを新しくしてくださるのだから。

 

39章はまだ続くのですが、↑の終わりはダチョウの生態を観て締めます。この特徴を見ると、正直ダチョウは愚かに感じる、でも馬とその乗り手をあざ笑うほどに高く飛びはねる。ダチョウにはダチョウの素晴らしさを神様は与えて下さっている。人の目には愚かに見えても。「神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ」と一見理不尽な感じもしますが、しかし私たちにとって愚かで、時に理不尽に思える時があっても、神様はあなたにはあなたへの計画を持ち、驚くべき御業を、たとえ驚異的な中にあってもなされる。だからこそ、私たちはこの知恵を、忘れた知恵・悟りを神様に求めよう。

 

神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけて死なせ、3日めによみがえらせる、人の目には愚かに見えること、しかし、この事によって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人に最高の恵み、罪の赦し、神様の子とされる特権、永遠の命を与えてくださるのです。復活のイエス様とともに新しくされ、羽ばたかせていただける、復活のイエス様が、驚異の中にあっても希望となり、導かれ、養われる。世の終わりまであなたと共に。

 

私たちの目に脅威であっても、神様は十字架にあって全てに打ち勝たれた。もはや驚異は過ぎ去った。神様の前にこれらは立ちおおせることはできない。神様がどれだけ知恵に満ちた方なのか、どれだけの愛を私たちに示されているのか、今一度私たちは思い出させていただき、この神様の御心がなることを切に願おうではありませんか。私たちの知恵や悟りではなく、神様が耕し、収穫させて下さる大いなる希望、恵みに信頼し、歩み続けようではありませんか。