「神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため、あるいは、恵みを施すためである。これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り延ばすことができるのか。神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちはことばを並べることができない。私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。」
ヨブ記37章13−24節
知っているつもりで実は知らなかった、気づいているつもりで気づいていない、そんな事はたくさんなりますよね。宝探しもそうで、実は本当の恵みというのは知らない、気づかない中で実はある。私たちが近視眼的に物事を見ようとすると、神様のなさろうとしている事が見えなくなる。私たちはこの神様の偉大さを見上げ、歩もう。
さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し、いつも祈り、自分たちのうちに罪があるなら、それを取り除いただき聖め新しくしてほしい、といつも願っていた、神様の恵みを求め歩んでいました。彼自身神様なしでは生きられない事をよく認識していた、だから今この苦難の状況の中でなお、神様に訴えていた。
これが気に食わないサタン。サタンはヨブに神様を呪わせ、引き離すため、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味がないじゃないか、お前は神様があなたを助けたのを見たか?と言わんばかりに。
そんな悩んでいる彼のもとに3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ヨブを慰め祈り励まし合うどころか、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめる。ヨブだってそんな事はわかっている、それでもヨブはやがて神様が自分を栄えに満ちた喜びに立たせて下さるという希望を持っていたのです。それでも彼らは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、自分は潔白なんだ、と主張するのでした。
ヨブはヨブほど正しい人と神様に評価されている、でも彼も3人の友も神様の事を分かっているようで分かっていない、分かっていても一部。なんでエリフが登場したのか、不思議に思っていましたが、御霊に導かれて語り始めているあたり、神様がそんな彼らを見捨てられず、遣わしたのでは、と思います。神様は3人の友については最後の方で問題視しますが、エリフについて罪に問いません。
そのエリフはこれまで、ヨブが自分こそが正しい、義なんだ、と訴えてきたことに対して意見を述べ、それでも神様は偉大、ヨブが神様のうちにこそ知恵がある、というけど、そのまさに神様のうちにこそすべてがある。だからこそ、「聞き分けること」「選び取ること」「何が良いことであるかをみわけること」を、えこひいきをしない神様に委ね、力ある神様に謙り、神様の御業を待ち望む、神様の際限のない恵みに生きることを勧めます。必ず神様が歌声へと私たちが喜びの歌声を挙げさせて下さる、私たちの想像を超えた何かをなされる、と。↑はその続き。
エリフは更に続けます。「神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため、あるいは、恵みを施すためである。これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ」と。神様は私たちが知らないだけであらゆる事を通してその恵みを轟かせて下さる。私たちは神様のことを知っているようで知らない、だからこそ私たちは目に見える現象だけに近視眼的になるのではなく、神様を見上げ耳を傾けよう。そこから全ては始まる。
そういえば、聖書の中に「主(神様)を恐れることは…」どいうことなのか、それについていくつか触れられています。「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ」。神様を恐れること、神様を神様とする人は神様が私たちに良い明察を与え、固く立たせて下さる。永遠に、どんな場面にあっても。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」。神様を神様とすることこそ、知識のはじめであり、そこに知恵と訓戒がある。「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む」。悪を憎む、神様の御言葉、命に生きる。
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」。聖なる方を知ることによって私たちは何が正しいのか、その悟りをいただける。「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる」。神様が私たちの年を、恵みの日々を増し加えてくださるから神様に立ち返る。「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」。ここに命の泉があり、私たちを命の道へと導かれる。「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」。だからこそ、私たちは知っているつもりにならず、神様の前に謙遜になり、神様の恵みに生かされ歩む。
主を恐れること、神様を神様とする中にこそすべてがあるということ聖書は語る。いや、神様がそう導いて下さる。エリフが「あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り延ばすことができるのか。神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちはことばを並べることができない」と語るように、この世の様々な現象を上げながら私たちは何でもできるし知っている、自分でなんとかできる、と私たちは考える。でもそれで疲れ果て、枯れる。
でも、エリフが「しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない」というように、風・聖霊様が様々な苦しみを吹き飛ばし、私たちに神様の栄光を、力と裁きに優れた方が、ご自身の義を、富を注がれ、私たちを死ではなく命へ導かれる。だから神様を恐れる事、神様を神様とする事をエリフは勧めるのです。
心小賢しくあるのではなく、神様に純粋に立ち返り求めよう。神様は、純粋な愛ゆえに、私たちが死にゆく事を黙っていられず、御子イエス様に私たちの罪を身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。罪・神様から離れ、神様を神様とせずに好きに生きる、暗闇の中を歩む私たちの暗闇を吹き飛ばすため。そして3日めによみがえられた事によって、私たちはこの神様の光、栄光の家族、神様の子として向かえ入れられるのです。私達が罪を悔い改め神様に立ち返るなら。
私たちは真っ暗な中を歩むことはできない。神様が御子イエス様の命にあって光をともし、あなたを導かれる。大丈夫大丈夫、ではなく今こそ神様の恵みに立ち返ろう。神様はあなたが帰り命を得、その恵みに生きる事を喜び、あなたと、世の終わりまでともに歩まれ、導かれるから。この復活のイエス様が見せて下さる一歩一歩の恵みに感謝し、歩もうではありませんか。