ーそれでも歌い続けるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。だれが、神にその道を指図したのか。だれが、『あなたは不正をした』と言ったのか。人々がほめ歌った神のみわざを覚えて賛美せよ。すべての人がこれを見、人が遠くからこれをながめる。見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。神は水のしずくを引き上げ、それが神の霧となって雨をしたたらせる。雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに注ぐ。いったい、だれが雲の広がりと、その幕屋のとどろきとを悟りえよう。見よ。神はご自分の光をその上にまき散らし、また、海の底をおおう。神はこれらによって民をさばき、食物を豊かに与える。神はいなずまを両手に包み、これに命じて的を打たせる。その雷鳴は、神について告げ、家畜もまた、その起こることを告げる。」

ヨブ記36章22−33節

 

歌というのは本当に力がありますね。励まし、力づけ、慰め…まあ、意味のわからないのもありますが。歌は商売道具と言うよりも、自分の思いを込めているのではないか。神様は、私たちに喜びの歌、賛美をこの口に与えてくださる、その夜うに私達を力付、養われる。私たちは神様の偉大さをどれだけ見ようとしているか、賛美しているだろうか。

 

さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前の時代に生きていたヨブの話。まあと言っても、アダムたちの子孫であることには変わらないのですが。ヨブは神様を心から愛し、いつも祈り、自分たちのうちに罪があるなら、それを取り除き、作り変えてほしい、といつも願っていた、神様の恵みを求め歩んでいました。そんなヨブを神様は喜ばれ、ヨブほど正しい人はいない、と仰られるほど。

 

彼の子どもたちの宴会の様子がヨブ記の最初の方で出てきますが、ヨブ自身もそうしていたかわからない、でも、歌、賛美、神様を褒め称える方法は様々、祈りであったり、告白であったり。ヨブはこの神様なしに生きることは出いないことを知っていた、だからこそ、今の苦難の中にあって神様と対話したい、と願っているのです。

 

その問題、サタンは神様のお気に入りのヨブに神様を呪わせ、引き離したいと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味がないじゃないか、と。別にヨブだけが神様のお気に入りなのではない、あなたもそう。そのあなたのために神様はいつも最善を備えている、私たちはこれを求めるかどうか。神様の時を待てるかどうか。神様は偉大、その計画は時にかなって美しい。今苦しくとも神様も一緒にあなたを背負い、栄光へと導かれるのです。

 

そんな中で3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ヨブを慰め祈り励まし合うどころか、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験などによる知識等によってヨブを苦しめる。ヨブだってそんな事はわかっている、それでもヨブはやがて神様が自分を栄えに満ちた喜びに立たせて下さるという希望を持っていた。それでも、彼らは持論で説き伏せようとします。しかしヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、自分は潔白なんだ、と主張します。

 

そこでエリフという人が現れ、3人のヨブの友の代わりに、御霊に導かれ語ります。これまでエリフは、ヨブが自分こそが正しい、義なんだ、と訴えてきたことに対して意見を述べ、それでも神様は偉大、ヨブが神様のうちにこそ知恵がある、というけど、そのまさに神様のうちにこそすべてがある。だからこそ、「聞き分けること」「選び取ること」「何が良いことであるかをみわけること」を、えこひいきをしない神様に委ね、力ある神様に謙り、神様の御業を待ち望む、神様の際限のない恵みに生きることを勧めます。↑は続き。

 

エリフはこの章の最初で、「エリフはさらに続けて言った」とある。彼の主張は本当に長い。でもそれは「まだ、神のために言い分があるから」なのです。彼のうちには神様への思いが、賛美が、喜びが溢れている。ダビデというイスラエルの2代目の王はこのように詩に残しています。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」と。神様が喜びを与えてくださる、豊かな恵みによって、際限のない蔵から注いで下さる。

 

私たちは神様を低く評価していないだろうか。エリフが「神のような教師が、だれかいようか。だれが、神にその道を指図したのか。だれが、『あなたは不正をした』と言ったのか」と指摘しているようなものになっていないだろうか。神様は力強い。神様、あなたは間違っている、などとどうして言えるだろうか。どうせ神様はできない、とさも神様の御言葉が、今導いている道が間違っているかのように私たちは考えやすい。

 

しかし、私たちは神様をどれだけ知っているだろうか。エリフは「人々がほめ歌った神のみわざを覚えて賛美せよ。すべての人がこれを見、人が遠くからこれをながめる。見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない」と言いますが神様はこの天地万物が造られるよりもはるか前、時間という概念さえない永遠の永遠から存在し、あなたが生まれるよりも、人類アダムとエバが生まれるよりもはるか昔から存在し、導き、治め続けている。

 

その歴史の究極は、私たちを救うためなら御子イエス様の命を惜しまず、十字架に私たちの罪の身代わりに欠け、死なせる、という究極の愛を示されることさえあった。私たちは一体神様をどれだけ理解しているだろう。こんなことを書いている私など言うまでもない、私の知っているのは多分、本当にミソッカスくらいでも知っていればいいほうかもしれない。

 

その神様が私たちを愛し造られた。私たちは知らない、見えない中で神様はこれまでも働かれてきた、私たちを救おうとさえし、御子イエス様の命さえ十字架にかけて死なせるほどに愛された。一体誰がこれを知ることができるだろう。その痛みを、悲しみを。その悲しみはあなたが滅びること、神様から離れ、枯れ果てることを神様は悲しまれる。私たちはわからない、世の中のことだってそうでしょう?それをここ数年ずっと見てきたじゃないですか。神様はそれよりもはるか昔からずっと、私たちの知らない中で治め、守り、あなたを救いたいとその御手をいつも伸ばされてきた。

 

わからないからこそ、私たちには教師が必要なのではないか。エリフはこの章をこうまとめる。「神は水のしずくを引き上げ、それが神の霧となって雨をしたたらせる。雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに注ぐ。いったい、だれが雲の広がりと、その幕屋のとどろきとを悟りえよう。見よ。神はご自分の光をその上にまき散らし、また、海の底をおおう。神はこれらによって民をさばき、食物を豊かに与える。神はいなずまを両手に包み、これに命じて的を打たせる。その雷鳴は、神について告げ、家畜もまた、その起こることを告げる」と。

 

私たちはこのエリフの問いに答えられるだろうか。これほどまでにあなたを愛し、豊かな食物を与え、神様の栄光を広げる、正しい意味でさばかれる。教師というと上から押し付けるように考えやすいですがそうではない、神様は御子イエス様の命とともに、イエス様のこの十字架の前に罪を悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し神様の子としてくださるのです。

 

何という恵みでしょう。この和解された関係の中で神様はあなたに神様から離れている間は決して見ることのできない、味わうことのできない神様の最高の食物にあって養われるのです。何という喜びだろう。私たちは神様のなされることを賛美、感謝しているだろうか。もっともっとあなたのみこころがあふれるように、栄光が広げられるように、神様ご自身を喜び歩ませていただこう。神様に指図するのではなく、神様が新しくしてくださったこの命、この道を、イエス様とともに歩もう。イエス様は夜の終わりまであなたとともにおられ、導かれるから。表現しきれない喜びを注がれ。