「だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。あなたに悟りがあるなら、これを聞け。私の話す声に耳を傾けよ。いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。人が王に向かって、『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって、『悪者』と言えるだろうか。この方は首長たちを、えこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることはない。なぜなら、彼らはみな、神の御手のわざだから。彼らはまたたくまに、それも真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらないで取り去られる。神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ。不法を行なう者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない。人がさばきのときに神のみもとに出るのに、神は人について、そのほか何も定めておられないからだ。」
ヨブ記34章13−23節
このご時世、未だに自主警察的なものがいる、とニュースで見てびっくりしたのですが、そもそもその基準はどこに、何を持ってするのか?それに関わらず、なにかの問題に対して、あれが悪い、誰が悪い、とか、どうして言えるのだろう。さばくことができるのだろう。私たちはそんなに偉いのか。そんなに知者なのか。私たちは自分の目、価値で見るのではなく、神様の目で見させていただこう。そして神様の偉大なる御心を求め続けようではありませんか。
さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し、その恵みを求め生きていました。いつも神様に祈り、歩んでいました。そんな彼を神様はとても喜ばれ、ヨブほど正しい人はいない、と仰られていました。彼が正しい行いをしたから、正しい、のではなく、神様をいつも求め歩むことを喜ばれていた。行いもたしかに大事ですが、神様を無視した行いは、聖書によればうるさいドラとかと同じ。
一方、サタンは人間がそんな聖いはずがない、とヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味がない、と苦しめます。そんな中で3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ヨブを慰め、ともに神様に祈り、神様へと向かっていくどころか、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験などによる知識等によってヨブを苦しめるのでした。ある意味では、↑の箇所でエリフが指摘する、なんの権限を持ってヨブをさばくのか、という問題が彼らにあった。言っていることは正しく聞こえても、神様が抜けた、愛の無いうるさいドラになっていた。
ヨブはヨブでそんなことはわかっている、それでもやがて神様は栄えに満ちた喜びに立たせてくださる、と信じ希望を持っていました。しかしそれでも、彼らは持論で説き伏せようとします。それでも、ヨブは神様にこそ知恵があり、この知恵にあって今まで生かされてきた、しかし今苦しんでいる、でも自分は潔白なんだ、と主張します。
このヨブの主張の前に3人の友人は何も言えなくなりました。そこで突如エリフという人が現れ、彼の前に何も言えなくなった3人のヨブの友の代わりに、というよりも御霊に導かれ、今何を言うべきなのか、それを媚びへつらうことなく語ります。これまでエリフは、ヨブが自分こそが正しい、義なんだ、と訴えてきたことに対して意見を述べ、それでも神様は偉大、ヨブが神様のうちにこそ知恵がある、というけど、そのまさに神様のうちにこそすべてがある。だからこそ、「聞き分けること」「選び取ること」「何が良いことであるかをみわけること」を勧めます。↑はその続き。
エリフは続けます。「だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか」と。これは非常に大きな問いかけです。これは、神様が何者なのか、私たちに、あなたに問いかけています。ある人は、神?何者?という人もいる。神に自分の運命を決める権利があるの?とか、私はあなたに自分を任せてた記憶はない、と。
でも、後に神様が登場するときにヨブに、この地ができたときのことをあなたは知っているか?と問いかけていくのですが、私たちは神様によって造られた存在です。日本にいると、どうも神、という存在を、自分の願いを叶えさせる召使い的な位置づけに心のどこかで起きやすい。でもそうじゃない、私たちは神様によって造られ、神様の造られたこの世界に住まわせていただいている。
聖書の創世記(天地創造〜)の中の世界の造られた際の様子についてこう記しています。「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。…神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」と。
私たちはエリフが「もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」というように、神様の息にあって、霊にあって生きたものとなる。神様なしに生きることはできない。私たちが神様をあーだこーだいうのではなく、神様がこの地の管理を私達に任せてくださった。守るように仰せになられた。そんな私たちがどうしてこの地を造られた神様に対して文句が言えるだろう。神様が悪い、こんな地にしたのは、とか。私たちは神様から任されていること、神様から与えられた命をどう生きているだろう。
エリフは「いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。人が王に向かって、『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって、『悪者』と言えるだろうか。この方は首長たちを、えこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることはない。なぜなら、彼らはみな、神の御手のわざだから」とさらに続けますが、この王は神様。
神様は決してえこひいきをしない、貧民を軽んじることもしない。本当に豊かなのは、神様に生かされている人、その人のうちに神様の恵みが溢れんばかりに起こるから。神様の御手のわざが望むから。そのあなたの決断を通し、神様はその命の泉、恵みをあなたの周りにも溢れさせる。あなただけに留めないのは、エリフが言うように、彼らもまた神様の大切な作品なのです。私たちは現状に不満を覚え、神様に文句を言う前に神様を、神様の御心を願い求めているだろうか。
イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と仰られた。心の貧しい人、それは決して卑屈な人とかそういうものではなく、神様を招く部屋を用意しいている、その人農地に神様は御国を広げてくださる、その人を通して広げられるのです。
神様は、神様をさばき自分勝手に生きる私たちを見捨てず、息絶えさせるのではなく、生きるものとするために、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせた。しかし3日めによみがえらせたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。なんと心の広い、愛に溢れた方だろう。
私たちはこの命がけの愛を実行される神様をどうして裁けるだろうか。むしろ私たちはこの神様に自身を委ね、この私を通してあなたの栄光を、御心を現してください、御国を広げてください、と祈ろう。神様は自分の心が貧しく神様が必要であることを知るあなたを通して偉大なるその御業をなしてくださるから。