「さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。それで彼らは、私たちを非常に尊敬し、私たちが出帆するときには、私たちに必要な品々を用意してくれた。」
使徒の働き28章7−10節
私たちはなにか不思議なことがあると、偶然、と片付けやすい。そして、それが神様を遠く離すこともある。神様にとって偶然はなく、全て見心のまま、必然なのです。これは単なる偶然、神様がこんな小さなことに関わるはずがない、とか、この「偶然」ということばが神様を自分で遠ざけてしまう。しかし神様はご自身の愛を持って近づいてきてくださる方。私達はこの愛を受け取り、この愛に生きよう。神様は御子イエス様の命さえ惜しまずアタ得るほどにあなたを愛しておられるのだから。
さて、↑は紀元1世紀、パウロというキリスト教の伝道者(使徒)が、ローマに護送されている途中、船が難破し、たどりついたマルタ島というところで起こった出来事。そもそも神様からの導きデカ、このまま行くと難破するからとどまったほうが良い、という忠告を、船長たちが振り切って出港、結果難破。そして荷をおろして、泳ぎ、たどり着いたのがマルタ島。
さて、これは偶然?必然?ふとこの箇所を読んでいた時に思ったのは、嵐で視界がはっきりするわけでもなく偶然マルタ島にたどり着く、とは思えない。他にもいくつか島はあった。しかし神様が導かれた。その嵐から救われた。すべての必要が与えられ、原住民に襲われる心配もないような島に。まあ、焚き火をしている時にパウロは蛇に噛まれるのですが、毒から守られ一切怪我を負うこともなかった。一切は神様の導き。神様はいつもその道を導かれる。
これはパウロ側の視点で見たらそうなるわけですが、「島の首長でポプリオという人の」の「父」、彼にとっては救いのときだった。パウロが来なかったら助からなかったかもしれない。ポプリオは難破してたどり着いたパウロたちよりも、客観的に見たら島の医者のほうが信頼できるはず。しかしできない、直せない、だからこそパウロに来てくれるように願い出た。神様は単純にパウロたちを助けただけではない、すべてのことを働かせて益としてくださった。この子とを通してさらにマルタ島にたどり着かせ、困っている人の藻とに神様は遣わされたのです。
ポプリオの父がその後イエス様の救ういを信じたかどうかは明記されていないからわからない。しかし、「パウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直」した、その祈り、彼のうちに働かれる神様の御力、これら全ては真実であると確信した彼は島中の病人を連れてきて、癒やされた。でも癒やされて終わりじゃない、もう癒やされたから十分、ではなく、尊敬した、それはただ単純に癒やされたからそれでいい、じゃない、神様の愛の前にへりくだったのではないか。病人を癒やしたから尊敬された、それだけなら、「癒やし、必要が満たされた」で終わるでしょう。
しかし神様がすべてを導き、救いを届けられた。偶然ではない、必然の神様の愛、救いを。尊敬する相手を私達は間違えてはいけない。いや、癒やされて終わり、なにかいいことがあって終わり、ではない。神様が成されるすべての愛に感謝し、尊敬し、パウロに必要なものを与えたように、私たちが差し出すべきは私達自身。そのとき、ただ何かが癒やされる、得る、回復する、にとどまらず、イエス様の十字架、私たちの罪の見川理に罰せられ死なれたあの十字架、そして3日めによみがえられたこの救いを受け入れるとき、私たちは神様と和解させていただき、本当の命を得る。
神様は偶然の神様ではなく必然の神様、全てを備え、益としてくださる。あなたの旅路、この歩みを主の御手に委ねよう。すべてを神様が導かれ、私たちは驚くべき御業を見、体験させていただき、次の旅路へと向かうことになる。これを話さず、握りしめ、この命の内を歩もう。
