ー不公平なのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。ある者は地境を動かし、群れを奪い取ってこれを飼い、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り、貧しい者を道から押しのける。その地の哀れな人々は、共に身を隠す。見よ。荒野の野ろばを。彼らは、出て行き、荒れた地で獲物を求めて捜し回り、自分の子らのためにえさを求める。飼葉を畑で刈り取り、悪者のぶどう畑をかすめる。彼らは着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない。山のあらしでずぶぬれになり、避け所もなく、岩を抱く。彼らはみなしごを乳房からもぎ取り、貧しい者の持ち物を質に取る。彼らは着る物もなく、裸で歩き、飢えながら麦束をになうその植え込みの間で油をしぼり、酒ぶねを踏みながら、なお渇く。人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。これらの者は光に反逆する者で、光の道を認めず、また、その通り道にとどまらない。」

ヨブ記24章1−13節

 

正直者はバカを見る、なんて言葉がありますが、最近のオリンピックでそれで痛い目を見た人が逆にいたように、必ずしも正直者が馬鹿を見る、ということはない。見ている人は見ている。神様が見ている。種をまけば人はどんな種であろうと必ず刈り取りをすることになる。良くも悪くも。神様にあって正直者は、勝利をいただく。この世に対する最終的な勝利であり、同時に神様の御心がなる時、私たちはその栄光を見る。私達はそれでも神様に会って正直に生きよう。

 

さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる少し前に生きていたヨブという人の話。ヨブは神様を心から愛し、その恵みを求め歩んでいました。神様はこんなヨブほど正しい人はいない、と喜ばれるほどでした。しかし、人間はそんな聖いはずがない、とサタンはヨブの財産や家族、健康など奪い、神様を呪わせようとしかけていきます。

 

それでもヨブは最初は神様を求め、褒め称えていました。神様が命を与えてくださったのだから、神様が与え、また整えられ、導かれると信じ、褒め称えていた。しかしヨブも徐々に苦しみを吐露していきます。それはそうです。人は弱い、それこそ昨日見たように、螺旋階段を上るように言ったり来たりを繰り返す。でも私達は螺旋階段であろうと、導かれている方、その道を敷かれている方を見失ってはいけない、神様はあなたの手を取り導かれているのだから。

 

そんな彼を慰めに3人の友が訪れます。長老格のエリファズは因果応報論、2人目のビルダデは勧善懲悪、最後の3人目のツォファルは持論の神様論を展開し慰めるどころかヨブを苦しめていきます。彼らは完全に目的を忘れ、神様よりも自分の体験談や、得た知識などにヨブを当てはめようとムリヤリするから、ヨブも苦しみ、こんがらかる。

 

ヨブはヨブで、理由もわからず苦しみ、神様に自分がいかに正しいのかを論じ合いたい、神様は何もわかっていない、と反論します。それでも神様の保障、神様がやがて栄光の地に導いてくださる、必ず栄えに満ちた喜びを得る日が来る、と反論するのでした。どんなに苦しもうともそれでもヨブは神様を求めるのでした。しかし、長老格のエリファズは自分の信念を曲げず、彼があくまで罪を犯したからこうなっているんだ、と反論し、ヨブを苦しめる、そのエリファズに↑でヨブは反論します。

 

前半部では彼はだんだん彼の心が恐れに支配されていった。しかし神様は恐れさせ、弱らせるのではなく、強くされ、導かれるのです。それはしかし、現実にいるヨブはまだそこに答えが至っていない。それはそうです。私たちも思い悩む。なぜこうなるんだろう?と。不公平じゃないか、と思うことも多々あるのではないか。しかし、神様はそれでも共におられる。この確信に立てるか、いや立たせて下さい、と神様をなお求めるかどうか、それは大きな分かれ目です。

 

ヨブは「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」といいます。ようするに、やがて神様の審判の日が、裁きのときが定まっている、ということ。それなのにどうして辛い目に合うのだろうか、不公平な目を見るのだろうか、とその疑問を投げかけます。

 

彼のこの悩みにどうして私達は簡単に「そうではない」と慰めることができるだろう。結局の所、勝利を収めさせてくださるのは神様であり、私たちがあれこれ一般論とか経験談、体験談を持ち出してきたところで、それが彼にすぐに当てはまるわけでもないし、それは3人の友人たちがヨブを苦しめていることと同じ。

 

このヨブ記の分かち合いでずっと見てきた、「なぜ共に祈らないの?」これを忘れてはいけない。人を強めるのは人の言葉や行動に限らない。もちろんそれはそれで多少なり助けになりますが、しかし本当に強めることができるのは神様、弱い者も強いと言える、貧しい者も豊かだと言わせていただける日を神様が迎えさせてくださる。

 

ときにうまくいあったり行かなかったり、神様を信じているのに不公平だ、と思うときもあるでしょう。↑で「ある者は地境を動かし、群れを奪い取ってこれを飼い、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り、貧しい者を道から押しのける。その地の哀れな人々は、共に身を隠す。見よ。荒野の野ろばを。彼らは、出て行き、荒れた地で獲物を求めて捜し回り、自分の子らのためにえさを求める。飼葉を畑で刈り取り、悪者のぶどう畑をかすめる。彼らは着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない…」とその問題点をヨブが取り上げているように。

 

しかし、人は種をまけば必ず、善し悪しに関わらず刈り取りをすることになります。蒔いた先から。私達は神様に信頼する、という種を蒔く時、神様があなたのうちに答え、共に導いてくださる。私じゃない、誰かともではない、完全に働かれる神様があなたのうちに働かれ、導かれるのです。この世の目で見たら不公平そのものです、ヨブの取り上げた問題点は。

 

しかし、神様はすべてのことを働かせて益としてくださる。どんなになにか不公平だと思うことがあっても、それはやがては廃れる。何かしらの裁きという形のみを刈り取ることはこの世を見ても分かる話。しかし、神様は不公平と思える中で、神様の公平というか、恵みを一人ひとりに注ぎたいのです。

 

ヨブは「しかし、神はその愚痴に心を留められない。これらの者は光に反逆する者で、光の道を認めず、また、その通り道にとどまらない」と言いますが、神様は一人ひとりに、それぞれにあった最高の恵みを注がれる。コピーペーストではない、その人にはその人への恵みを注がれている、これを受け取るかどうかは私たち個人に関わることです。神様の道こそ命の道、とどまるかどうか、決めるのは最後は私たちなのです。仮に闇にしか見えない状況にあっても神様は光をともしてくださり、私たちを導かれる。

 

神様は、↑のヨブの疑問をひっくり返すべく、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、そんな闇の中に歩む私たちを神様のもとに引き寄せるべく、私たちの罪を、悲しみを、痛みを、全部背負わせ、十字架にかけて死なせた。しかし3日めに蘇られたことによって、完全に勝利された。御子イエス様を信じるものがひとりとして滅びることなく永遠の命を持つために。

 

イエス様はこの十字架にあって世に打ち勝たれた。この復活のイエス様、あなたのために命さえ駆けられるイエス様があなたを導かれている、私たちを導かれる。なんと幸いだろう。ここから刈り取らせていただける恵みはどれだけ大きなものだろう。世の横暴を塗り替え、勝利し、栄光の光が輝くならなんと幸いなことだろう。私達は不公平じゃないか、と思いたくなる。でもその前に、神様の御心が溢れ流れることを切に祈ろうではありませんか。イエス様はすでに世に打ち勝たれた。この勝利の行列に私たちも加えてくださる。イエス様にある御心にあって今日も生きよう。