ー利益追求ではなく、奇跡追求ではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨブは答えて言った。あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけってもよい。私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私がいらだってはならないのか。私のほうを見て驚け。そして手を口に当てよ。私は思い出すとおびえ、おののきが私の肉につかみかかる。なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか。彼らのすえは彼らとともに堅く立ち、その子孫は彼らの前に堅く立つ。彼らの家は平和で恐れがなく、神の杖は彼らの上に下されない。その牛は、はらませて、失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで、仕損じがない。彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。彼らはしあわせのうちに寿命を全うし、すぐによみに下る。しかし、彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか』と。見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。悪者のはかりごとは、私と何の関係もない。」

ヨブ記21章1−16節

 

世の中、利益追求、これを命と天秤をかけ、大切なものを失ってしまう。仕事仕事、儲けに走って、見るべきものを見ないで大切なものを失うことも。奇跡もそうなのですが、結局主人公が自分になり、自分に利益を求める。でも、私たちは神様に繋がっていてこそまことの命を、恵みを受けることができる。それは私たちが自分でするものとは違う。この天地万物を造られた神様があなたのうちに御心をなされる、その恵みはなんと素晴らしいことか。私達は、自分の言い分の前に、神様の前に静まり、神様の御心がこの身になりますように、と祈ろうではありませんか。

 

さて、↑は紀元前、イスラエル民族が始まる少し前に生きていたヨブという人の話。ヨブは神様を愛し心から、いつも神様の恵みを求めていました。神様はそんなヨブほど正しい人はいない、と評されるほどでした。しかし、人間はそんな聖いはずがない、何かあれば神様を呪うはず、とヨブの財産や家族、健康など奪うのでした。

 

これ、私たちは注意しなければならない。自己利益飲みを追求し、神様を自分の召使いとか、奇跡を行ってくれる何か、そんな程度に捉えていると、それがなければ神様を疑い、離れる。その先に神様が見せようとする栄光を私たちは見、体験できなくなってしまう。

 

話は戻して、それでもヨブは最初は神様を求め、褒め称えていました。しかしヨブも徐々に苦しみを吐露し始めます。そんな彼を慰めに来たはずの3人の友は、長老格のエリファズは因果応報論、2人目のビルダデは勧善懲悪、最後の3人目のツォファルは持論の神様論を展開し慰めるどころかヨブを裁き、苦しめていきます。一方でヨブは理由もわからず苦しんでいる、神様に自分がいかに正しいのかを論じたい、神様は何もわかっていない、と彼らに反論をするのでした。そしてそれでも神様の保障、神様がやがて栄光の地に導いてくださる、と信じ求める。彼ら3人に反論をしながら。

 

前章までで3人の2回めの慰めという名の裁きが終わった。因果応報、勧善懲悪、悪は悪で滅びて終わり、などなど。彼らは慰めに来たつもりなのに、自分たちが年長者だから、知者だから、経験が多いから、と神様に聞かず、また彼のためにともに祈ることもせず、ヨブは傷つくだけだった。そんな事はわかっている、でも神様は自分を保障される、やがて神様の栄光に立たせてくださる、その確信を揺るがしてくる。

 

私たちは一般論や、経験論などで魂を揺さぶられてはいけない。神様は私達の霊を、命を激しく揺れ動かし、神様にある喜びを知らせてくださる。神様のおっしゃることを蔑ろにしてはいけない、それがよく分かるのが、↑のヨブの反論。

 

ヨブもよくわかっていた。神様から離れるところには恵みがないことを。だからいつも神様を求め、祈り、もしかしたら知らないうちに罪を犯していたのかも、と生贄を捧げる、息子たちのためにさえ、そんな家族思い、かつ神様思いだった彼。

 

彼は神様から離れているところでは、「私は思い出すとおびえ、おののきが私の肉につかみかかる。なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか。彼らのすえは彼らとともに堅く立ち、その子孫は彼らの前に堅く立つ。彼らの家は平和で恐れがなく、神の杖は彼らの上に下されない。その牛は、はらませて、失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで、仕損じがない。彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ」とかたる。

 

確かに神様を知らずに生きている人たちは一見成功するように見える。しかし時が来ればその理論は否定されることもある。また権力を増し加えて丸太りしていくこともある。私腹を肥やして。こんなのは彼の主張を見なくても私たちもわかる。それほどわかりきったことなのです。彼らがヨブに展開していたことは。そして平安、慰めではなく、不安とおののきを与える。

 

ただ、そんな神様を神様と思わず好き勝手に生きる人の主張として、「しかし、彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか』と」と語る。これは神様によって成功したのではない、自分の力で成功させたのだ、と。

 

いつか分かち合ったかもしれませんが、自分は神を超えた、何でも作れる、と主張する科学者に神様は、ではやってみよう、と言われ、科学者が手を土にかけると、土から造りなさい、と言われた。私たちは神様に与えられた命を、神様の養いの中生きる。神様が関係ない?とんでもない、神様はいつも私達が当たり前と思っていることを与え、教え、導かれるのです。助けてくださっているのです。

 

神様を私たちは奇跡をして自分の人生にプラスを与える程度の存在にしか見ないことがある。しかし私たちは神様を侮ってはいけない。神様が、私たちのいのちを建てあげてくださる。それなのに私達が神様、あなたはもう不要です。時々助けてくれれば十分です?とんでもない。あなたの核である部分を取り除いてどうして生きられますか。崩壊していくだけです。私達こそ神様の前に静まり、神様の御心の前にへりくだり、そこに生きる、御心が御心を願うべきではないだろうか。

 

ヨブが↑の最初に言った「あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけってもよい。私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私がいらだってはならないのか。私のほうを見て驚け。そして手を口に当てよ」という部分。私はどうしても引っかかる。もちろん友たちの問題もある。

 

でも、自分の言い分を、思いを神様は知らないとでもいうのか、神様はあなたをあざけるのではない、あなたに命を、平安を、喜びを与えるため、御子イエス様を十字架にかけ、あなたの罪の身代わりに罰し、死なせた。しかし3日めに蘇らせたことによって、神様の前に悔い改め立ち返るすべての日との罪を赦し、神様の子としてくださるのです。この復活のイエス様にあって新しくされたあなた、それは神様が建てあげていてってくださる、イエス様の命にかけて。

 

自分にとっての利益、自分を喜ばせる奇跡、それを与えてくれ、と祈るのではない、私たちは神様のなされる御業の前にへりくだり、自分のこうしてああして、の前に、神様の御心がなるように、それに従えるよう祈ろうではありませんか。今はわからないこともたしかにたくさんある。しかし神様はそれでもあなたを愛している。あなたはこの神様の前にどう歩むだろうか。