「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」
Ⅰペテロの手紙1章23節
私も最近実感するのですが、人は年齢とともに今までできていたことができなくなっていく。体力、能力、その他諸々。老いと共に、と言えるほどまだ私も年ではありませんが、若い頃ほど自分は若い、とは言えなくなってきていますが、やはり下がっているのを実感します。しかし、朽ちることのないもの、いやむしろ実を結ばせる、人の目においているように見えても神様の御業があなたの内に現される時、実が結ばれる。今日、私たちはこの神様の蒔かれる朽ちない種にあって生かされ歩もう。
さて、↑はイエス様の12弟子の一人だったペテロという人が老年に書いた手紙。彼が何者なのか、12弟子以外で最も有名なのはイエス様を否定したこと。イエス様とならどこにでも行く、と言っていた弟子の筆頭格のような人がイエス様が捕まったら、逃げ出し、隠れていた。しかし、彼は復活のイエス様に出会いかえられた。
特に、イエス様が昇天される少し前、彼をそっと呼び出し「私を愛するか?」「私の羊を飼いなさい」と3度に渡り言われた。最後は「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」と告げられた。まあ彼の最後を現す(殉教)もの共いわれますが、イエス様の十字架の前に逃げ出した彼がこんなことを言われたら普通なら逃げ出したくなる。
しかし、弟子たちとともに祈り、聖霊様を受け、彼は大胆に明かしするものへと変えられ、伝道していった。どんなに鞭打たれようとも、牢に囚われ、殺されそうになろうとも、彼はイエス様の愛を伝えることを止めなかった。
なぜそんなに変えられたのか?イエス様が朽ちない種を彼のうちに蒔かれたから。その種とはイエス様の生命。イエス様は彼の、私たちの罪の身代りに十字架に架かられ、死なれた。しかし3日めに読みが彫られたことによって、イエス様の十字架の前にくい改め、救い主として受け入れるすべての人の罪を赦し、神様の子とされる、その永遠の命、復活のイエス様が住まわれ、聖霊様があなたの内に働かれる。この神様の愛、それによって蒔かれた種は私たちを霊的にクチさせない。人の外側はくちていっても。
ふと、↑のペテロの手紙に残されている言葉の「種」という言葉を見て思うのは、種がまかれれば実が結ばれる。種はもちろん朽ちない。それと同時にその朽ちない種があなたの内に実を結ばせてくださる。種は実を結ばせる。この朽ちない永遠の命、神様の大いなる恵み、愛、道からがなされる実はどれだけすばらしいものとなるだろう。ペテロは「生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです」といいますが、神様の言葉は虚しく帰ってくることはありません。
私たちがなすことは虚しく帰ることはある、しかし神様が成し遂げてくださる。完成させるのは私たちである必要はない。私たちは神様に委ねよう。今、どんな苦難の中にあろうとも、神様がなしてくださる大いなる御心、ご計画に期待しよう。蒔かれた種からなる実によって成し遂げられる大いなる御業に期待しよう。
