「ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。』サタンは主に答えて言った。『皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』主はサタンに仰せられた。『では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。』サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。『それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。』しかし、彼は彼女に言った。『あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。』ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。…」
ヨブ記2章1−13節
背に腹は代えられない、という言葉がありますね。だから仕方ない、と諦める、妥協するのか?それとも?神様の恵みに変えられるものはありません。背に腹は代えられない、と神様を諦めるのではなく、神様に祈り求めることを妥協せず、御心の内を歩ませていただこう。
さて、↑は紀元前、イスラエル民族の始祖と言われるアブラハムよりも少し前の時代。彼は神様が本当に素晴らしい人物だ、と評価するほどに神様の恵みを求め、また生きていた。もし自分たちの内に罪があるなら、赦して下さい、といつも家族のためにもさえ、悔い改めの祈り、捧げものを捧げていた。神様を求めるヨブを神様は喜び、なお祝福していた。
ところがサタンの策略によって、彼の財産、若者、子どもたちの命さえ奪われるのでした。神様は、財産までは許された。でも、それをさらに豊かな恵みによって素晴らしいものに変える、この世のものでは測れない恵みを注がれようとされていたのではないか、と思う。この辺の話は明日以降に続く3章〜のやり取りの中で少しずつ見えてくるのですが。そしてヨブは、そんな不幸なことがあろうとも、自分の原点、母の胎、と言うよりも神様に帰ろう、神様を讃えよう、と告白するのでした。
しかしこれにサタンは気を良くしません。まあ私たちはサタンの気をよくさせる必要なんてないんですけど。そこで、周りのことに耐えられても、自分のことになったら耐えられず、神様を呪うに違いない、と神様に訴えに生きます。それにしても、サタンはあの手この手と私たちを神様から引き離そうとする。
だからこそ、神様にそれでも私達の思いを、患いを、一切委ねる必要があるのではないでしょうか。神様は、善へと導かれるから。人のタイミングとは違うかもしれない、人の望む結果とは違うかもしれない、しかし神様の与えるものに勝るものはありません。これは私たちは決して忘れてはいけない。神様を求めるものを、ヨブに対してそうであったように神様は喜ばれる。
話を戻して、サタンは今度は、「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません」と言います。何やら難しい、わけのわからない表現ですが、ようするに、背に腹は代えられない、自分の命が助かるためだったら、なんでもするだろう、と。そうすると話がわかってきます。サタンの狙いは、背に腹は代えられない、神様がこんな事をするなら(するのはサタンです。サタンの手に委ねたわけですから。神様は悪は行いません)神様から離れるだろう、と考えたわけです。
神様は人を生かしたい、本当の命、恵みをもって。サタンはこの神に取って代わろうとするわけだから、そんな神様など見ないで、世を見て見なよ、現実を見て見な、もっと理不尽、楽しいこと、様々あるじゃないか、それこそ、エヴァを誘惑したときに、神様は本当にあなたに良いものを与えているのか?と堕落、霊的な詩へと引きずり込もうとするのです。天から落とされた恨みもあるでしょうけど。
そしてヨブは健康を打たれました。ちなみに、後のイスラエル王国のヒゼキヤ王がかかった病も同様のものでした。このときは預言者イザヤという人を通して、癒やしのすべを教えますが、ヨブはその痒さに気が狂いそうになります。ヨブと認識できないほどに。そしてあまりの痒さにこれを傷つけていく。この憐れな姿を見た妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」などとひどいことをいう。
ちなみに元の言葉で見ると面白いのですが、奥さんが言った言葉「呪って」という言葉は「祝福する」という言葉と同じ。だから訳を極端にすると、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を祝福して死になさい」となる。何という皮肉、と言うか歪曲した嫌味。これによって夫婦のたもとが別れた、という人もいる。でも、それ以上に、そのような考えに袂を分かち、神様をなお信頼しようと、彼女に「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と答えるのです。
もう、究極の信仰ですよね。でも、ヨブはそれでも罪を犯さなかった、ということを考えると、彼はこの災は神様からのものではない、とこの時点では考えた。残念ながら、慰めに来たはずの友人たちによってこの後惑わされ、悩むこととなっていくのですが。神様は神様を求めるものに災いをもたらさない、試練はあっても、それを持って私たちを精錬してくださる、と確信を持っていたのではないか。もしこれが神様から来ているとするなら、それでも神様が善へと導かれる、そう確信したのではないだろうか。
この後、慰めに来たはずの友人たちが彼を苦しめることになるのですが、私たちの周りの状況がどうであっても、背に腹は代えられない、と神様を諦めてはいけない。それこそサタンの罠だ。どんな状況が来ようとも、それでも私たちは私たちの救い主を私達の罪の身代りに十字架にかけて死なせた、そして3日めによみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るなら、私たちを神様の家族へ、神様の恵みのうちに招かれる。この世のものに以下に打たれようとも、復活のイエス様の命、同じ恵みに預からせていただき、新しいあなたへと生まれ変わっていく。御子イエス様の命をかけてまでもあなたを愛する方が。
今日、私たちは背に腹はかえられぬ、じゃなく、神様に変わるものはない、神様のくださる救いに勝るものはなし、と告白し、この与えられた命を生きよう。目を向けるべきはサタンでも、周りの状況でもない、これらに振り回されず、この神様の御手に導かれ、歩もう。神様はその栄光を見せ、また導かれるから。
