ー細く長い人生か、太く短い人生か、でなくー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「神の人モーセの祈り 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」

詩篇90篇1−17節

 

人の人生はどのようなものが幸せなのだろう。ある人は細く長い人生、ある人は太く短い人生。でも、どんな基準で決まるのだろう。その答えはそれぞれが考えることなのかもしれませんが、誰しもが幸せを願って歩む。その幸せな人生を建てあげるのは神様。神様の与えてくださる1日、祝福される一日は、この世の1000日に勝る、と聖書にもありますが、神様は人の計り知れない大いなるヒビをあなたの内に与えたい。私たちはこれを受け取り、この命の内歩もう。

 

さて、↑は紀元前イスラエル王国が建国されるよりもはるか前、イスラエルがかつてエジプトを神様を通して救い、しかしその恵みを忘れた新しい王朝が現れ、イスラエルは400年奴隷として囚われていた、そこから神様を通して救い出したモーセの残した詩です。神様がかつて必ず先祖たちに与えると約束されたちに連れ上ると、神様は約束され、そのリーダーとしてモーセを立てた。

 

ただ、彼はたった一度の失敗によって神様の約束された地、乳と蜜の流れる地に入ることは赦されなかった。彼の兄も、また彼と一緒にエジプトを出た多くの民も、神様に逆らい、この恵みを失ってしまった。彼はそのような中で↑のような詩を残した。決して神様への恨み言ではなく。

 

というのも、彼にとっては約束の地に到着するのは一つの通り道でしかなかった。いや、これまで彼が120年近く、ファラオの策略によってナイル川に投げ込まれ、王女に救われ40年王宮で過ごしたことも、奴隷としてこき使われ苦しむイスラエル人の一人を助けるべく、1人のエジプト人を討ってしまった、それ故の逃亡生活40年(ここで家族ができ、子どもも与えられた)、ここで神様に出会い、出エジプトを果たし、約束の地の直前に来るまでの荒野の40年の旅路。どれも決して無駄ではなかった。この一日一日は神様が祝福され、導かれていた。その恵みはこの世の価値では測れないものだった。

 

そして、彼はこの後死にますが、死んで終わりではなく、人の目に見える約束の地、を超えて、神様の待っておられる天の御国に帰る。その事を彼は喜んだ。だから、彼の詩に恨み言の一つもなく、神様を褒め称えている。自分が約束の地に入れないと知った後でも、神様に信頼し、1日1日を味わっていた。神様は、「お前は罪を犯したから帰ってくるな」とは言わず、「人の子よ、帰れ」と、ご自身のもとに招かれたのです。ご自身の懐に。

 

彼の役割としてはここまで、神様のご計画は変わらず続く、あなたはあなたで私のもとに帰っておいで、と言わんばかりです。神様の目にはこの世の千日は1日のように過ぎ去る、といっていますが、神様が私たちに関心がないのではない、私たちの千日、まあ日数の問題ではないのですが、濃密な一日一日を神様が日々日々注がれるのです。だからこそ、私たちはこの神様から離れては、↑に見るように枯れ果てるようになる。でも、神様はそれ以上に恵み、この世の測りでは測れない恵みをあなたの内に現したいのです。

 

モーセはさらにこのようにうたいます。「私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください」と。信長は人生50年、まあ時代時代によって人の齢は違うのですが、今は100歳を超える人もざらにいる。

 

でも、ながければいい、短ければいい、そういうレベルの話ではない。この一日一日が辛ければどれだけ長く感じるだろう。モーセは神様に、正しく、日を数えることを押してください、と訴えていますが、日数を数える、とか、余命何年、を教えてほしい、と言っているわけではない。自分が今いる場所、その日、その中にいかに神様が恵みを注がれ祝福されているのか、それを覚えることができるように助けてください、そう訴えるのです。だからこそ、約束の地に入れなくても、モーセは死という通り道は通るけど、永遠に続く神様との関係、それを待ち望むのです。もっともっと、神様の恵みを味わいたい、と。自分ののぞみではなく、神様が建てあげてくださる最高の日々を求めるのです。

 

「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように」と。

 

今の世の中様々な苦難困難がある。人それぞれ。これ、ということはできない、でも神様はあなたを見ておられ、あなたをご自身の恵みのうちに、命のうちに、愛のうちに、その御心に帰れ、と招かれるのです。あなたを造られ、あなたを愛する神様が、私たちの思い煩いで、罪で築き上げられてしまう齢を、神様の恵みによってつくりかえてくださる。御子イエス様があなたの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、身代わりに死なれた。しかし3日めに蘇られたことによって、死を命へと変えてくださった。イエス様の十字架からの招きの前に悔い改め立ち返るすべての人を神様の子へと招かれる、その特権が与えられる。ここから天国への旅路は始まる、その前味を味わいながら歩ませていただけるのです。

 

この命にあってあなたを確かなものと、神様がしてくださる。イエス様のいのちにかけて。愛にかけて。私たちは自分の思いで齢を重ねるのではなく、神様の御心によってかさねさせてください、その慈しみに生かしてくださいと祈り求めようではありませんか。あなたの齢を、正しく知る、数えられるように。そしてこの神様に感謝し、歩もう。