「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
ピリピ人への手紙4章4−9節
貯金、そこからお金を引き出す。喜びにしても、癒やしにしても何にしても、その供給源が必要です。どんなに喜びなさい、と言われても、その供給者がいなければそれは成り立たない。神様はあなたを喜びの存在として造られた。あなたを神様は愛されている。私たちは、人の考えにまさる神様の平安が、あなたの心と思いを守られる。この神様に目を留め、留まり続けようではありませんか。
さて、↑は紀元1世紀に活動していた使徒パウロが書き残した手紙です。私は後半を読んでいた時に、どちらかというと「いつも主にあって喜びなさい〜守ってくださいます」という部分まででメッセージされることがあるのですが、これは神様にとどまらなけば前半も後半もできる話ではない、と思わされた。イエス様という架け橋が、平和の神様と私たちをつないでくださる、その中にあって、私たちは生きたものとなる。
パウロという人はこれまでも分かち合ってきましたが、最初はキリスト教徒の迫害者、将来有望の若者殺害に加担し、更に迫害をつようとしていた。さらには、宗教家としても有能で、クリスチャンにならなかったなら、その宗教の中では、一応は成功した、と思われていたかもしれない。しかし、そこには救い主はなかった、喜びはなかった、平安が、平和がなかった。
彼も救い主を求めていた。それがイエス様だと知らなかっただけ。そのイエス様は、復活のイエス様が、なんと迫害者であるパウロの目の前に現れ、裁くどころか、愛し、悔い改めに導かれ、救いに導かれた。自分が迫害していたのだから、キリスト教徒になるということは迫害を受けること、またローマ帝国の支配下で苦しむこともわかっていた。損か得か、という目だけで見れば損、と「普通は」思ってしまうでしょう。
しかし、彼は神様を愛していた。そして神様の赦し、愛を受けた今、聖霊様の命のご支配を受けている今、かえって、もとに戻ることこそ損、と考えた。むしろ神様の命を頂いている、その喜びにまさるものはない、そう考えたのではないか。
こんな迫害時代に喜びなさい、いつも喜びなさい、なんて無茶苦茶な話です。今の時代もそうですよね。一体どうして喜べるだろうか、と普通は思う。でも、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってく」ださるのです。この世の知恵、知識が、支配者が、為政者が喜びへ導くのではない、あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまず与えられた神様が、あなたを積みの奴隷から神様の子へと引き上げるため、惜しまず与えられた神様が、あなたの内に喜びを湧き上がらせてくださる。人の想像するレベルを超えた神様の平安が、あなた自身を守ってくださるのです。
パウロはさらに、「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」と書きます。「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」、そんなものはどこに存在しますか?
それは、あなたのために命さえ惜しまなかったイエス様です。イエス様が、あなたを導かれる、平和の神様が共にいてくださるから、私たちは、↑の前半部、神様が活かし、力づけ、導かれるその喜びを受けるのです。実行しなさい、それはその神様の御心に聞き従うことです。私たちが何かをしたから喜びを得るのではない、イエス様の命の十字架が神様とあなたをつなぎ、あなたに神様にある平和、喜びが成し遂げられるのです。これを聞き、受け、見るのです。
今日、私たちはこの神様のくださった救い、命の内を歩もう。その喜びにあふれ、歩もう。神様が、あなたの思い煩いも一切変えてくださる。主よ、御心のままに、と祈ろうではありませんか。神様が、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が、あなたに答えてくださる。底までの代価が支払われた、これ以上の喜びはない。この素晴らしい喜び、神様に目を、心を留め、歩もう。