「歌。アサフの賛歌 神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。彼らは言っています。『さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。』彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。アッシリヤもまた、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。セラ どうか彼らを、ミデヤンや、キション川でのシセラとヤビンのようにしてください。彼らは、エン・ドルで滅ぼされ、土地の肥やしとなりました。彼らの貴族らを、オレブとゼエブのように、彼らの君主らをみな、ゼバフとツァルムナのようにしてください。彼らは言っています。『神の牧場をわれわれのものとしよう。』わが神よ。彼らを吹きころがされる枯れあざみのように、風の前の、わらのようにしてください。林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように、そのように、あなたのはやてで、彼らを追い、あなたのあらしで彼らを恐れおののかせてください。彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。彼らがはずかしめを受け、滅びますように。こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。」
詩篇83篇1−18節
私たちには好きな人もいれば嫌いな人もいる、得意不得意もある。敵、と思いたくなるようなこともある。ブログでは数日前に分かち合いましたが、トルストイはこんなことを言っています。「敵を取り除くためには、敵を愛さなければならない」と。神様は、互いに愛し合いなさい、復讐してはならない、と教えている。それは神様がすべてを善に導かれるから、神様こそ主だから。私たちはこの神様にいつも信頼し、歩もうではありませんか。
さて、↑は表題の通りアサフという賛美隊の人が歌い残した詩です。当時のイスラエルは↑を見ても分かる通り大ピンチの中にありました。その時、神様、敵を撃ってください、とかそういうことを祈る所、神様の御名を崇める詩を歌った。信じられない。詩は詩以上に告白、祈りでもある。そんな事を言っている場合ではない中で、彼は神様に信頼することを、神様の御業が、御心だけがなること、私の願いではなく、これが彼の願いだったのです。
状況としては、敵国に迫られている。エドム、イシュマエル、モアブ、アモン。これらは全て事もあろうに、南ユダのある意味で兄弟国のようなものでもあるんです。エドムはイスラエル部族が生まれたヤコブの兄、エサウから発生した国家、イシュマエルは、イスラエル民族の始祖アブラハムの息子。彼の2人目の息子イサクがイスラエル民族を継いでいくのですが、イシュマエルは別な道を歩んだ。モアブとアモンは、そのアブラハムの甥、ロトの娘たちが、神様に信頼できず、父を酔わせ、近親相姦によって発生した部族。
実はこの4つの部族には1つの大きな特徴があります。彼らは祝福されているんです。土地、収穫物、その他諸々。イスラエル民族の主流となるユダ、彼らも祝福されいてた。問題なのは彼ら4部族は自分たちが与えられているものを当たり前と思いすぎ、イスラエル(南ユダを含め)を嫉妬し、何度も攻撃を仕掛けてくるのです。エドムにしても、イシュマエルにしても、アモン、モアブにしても、イスラエルが出エジプトをした際、彼らの道を通る時、そこの土地は与えない、彼らのものだから、と守ってくださっていた。その土地を、神様は彼らに必要なものはいつも備えていた。しかし彼らは目に見えるものは信じても、目に見えない祝福は見ないで神様は自分を愛していない、と恨むのです。
ちなみに、第2次世界対戦時、当時のイスラムのボスと、ナチスが手を組み、ナチスはヨーロッパのキリスト教徒を、イスラムはアジア圏を、と約束されていたことがわかっています。このときも事もあろうに、ナチスと手を組むイスラム…これは本当にありえない。彼らはイエス様を認めなくとも同じ神様を信じている、その民族を滅ぼそうとしていたのです。
私たちはレベルは違えども、そのような状況に陥ることはあるでしょう。どうにもならないような。しかし神様は私たちを決して見捨てているわけではない。アサフは「沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください」と歌いますが、むしろ私たちこそ、神様に頼る、という点において沈黙してはいけない。神様は、いつでも私たちが神様を求めることを待っておられる。というよりも、神様はいつでも現在進行系で動かれているのです。それを、神様の御心として認める、従う、という点で沈黙してはいけないのです。
彼らは「『さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。』彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます」と言いますが、契約を結ぶべき相手は神様です。神様が私たちと結んでくださるのです。私たちが神様に逆らって、彼らと同じになってはいけない。神様の御名が覚えられる、神様の御技は誰も消し去ることはできない。だからこそ私達こそ、謙遜に膝をかがめ、手の前にひざまずき、神様の御業を待ち望む、祈り求めるべきなのではないでしょうか。
彼らはなお、「神の牧場をわれわれのものとしよう」と言いますが、神様を追い出して、我々が支配しよう、と考えている。でも神様を追い出してどうして私たちは神様の御業に、愛に、養いに生きられるだろう?私たちは私たちだけでは生きられない。神様の口から出る一つひとつの言葉、その口から出る息吹、霊によって生かされる。むしろ神様の牧場は私たちを養い、育て、また導かれるのです。イエス様は良い羊飼い、羊の声を聞き分け、また、羊のために命を捨てる、それほどに愛され、守られる。これこそ、神様の思いなのです。
アサフは最後にこのように締めます。「わが神よ。彼らを吹きころがされる枯れあざみのように、風の前の、わらのようにしてください。林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように、そのように、あなたのはやてで、彼らを追い、あなたのあらしで彼らを恐れおののかせてください。彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。彼らがはずかしめを受け、滅びますように。こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを」と。
復讐してください、彼らを討ってください、ではなく、彼の本質的な願いは、神様の御名が崇められること。神様の御業を見、彼らが立ち返ることを願った。序論でトルストイの「敵を取り除くためには、敵を愛さなければならない」という言葉を紹介しましたが、自分の復讐ではなくもし、彼らが悔い改めるなら、あなたを苦しめる何かが神様の前にへりくだり、立ち返るなら、どれだけ素晴らしいことでしょう。その人が神様を信じるなら。その時敵は兄弟となる。
イエス様は、罪人を取り除き、私たちと契約を結ぶため、自らその罪を背負い十字架にかかられ死なれた。しかし3日めによみがえられたことによって、この罪を悔い改め立ち返る時、私達の罪は許され、神様の子とされる。
この愛を受けた今、私たちは神様の偉大な御名を。神様の御心を求めることを沈黙せず、神様に祈ることを沈黙せず、神様を褒め称え、従う、行動においても沈黙せず、この命の道を歩ませていただこうではありませんか。